「過去を振り返ることは・・・」(ヨハネ・パウロ二世)
アウシュビッツと広島・長崎
「私がこの広島平和記念公園への訪問を希望したのは、『過去を振り返ることは、将来に対する責任をになうことだ』という、私自身の強い確信によるものです。」
1981年2月25日、「平和の巡礼者」と自らを呼んで人類史上最初の被爆地の土を踏まれた教皇ヨハネ・パウロ二世はこう宣言されました。
「過去を振り返る」とは「人類の犯した悲しむべき所業」、「戦争のもたらす恐怖と苦しみ」、また、それらの記憶をとどめる場所を思い起こすことであると語りました。
「こうした数多くの場所や記念物の中でも、広島と長崎は、特に核戦争の最初のいけにえの地として特筆されるべき所です。」
教皇ヨハネ・パウロ二世が日本訪問を決意された時、「人間とは信じられないほどの破壊をやってのけるものだということを思い起こさせる」広島と長崎を訪れることを自らの意思で強く望まれたにちがいないと思います。
そして、教皇の胸の中には、アウシュビッツが大きく影を落としていたにちがいないと信じます。
「平和アピール」の中で、広島や長崎と並んで「強制収容所や民族抹殺のための収容所の跡」を「人間のしわざ」である戦争の悲惨さと非人間性を思い起こさせる場所としてあげているからです。
ポーランド人のヨハネ・パウロ二世は、幼い頃からナチスや共産主義による祖国の苦難に満ちた歴史を生き抜いてきた人です。特にナチス・ドイツ軍に占領されたポーランドで何が行われたか、ユダヤ人の友人や隣人が強制的に連行されたことを身をもって体験しています。
アウシュビッツ収容所跡は教皇の故郷クラクフに近く、母国を訪問された際に訪れています。妻子ある男の身代わりになって生命をささげた聖マキシミリアノ神父の独房の前で、長い祈りの時を過ごしました。
1981年2月26日、コルベ神父が創立したコンベンツアル聖フランシスコ修道会本河内修道院訪問した教皇は、予定の時間を超えて一時間以上も滞在しました。同じポーランド人であり、「愛の殉教者」である聖なる神父に自作のポーランド語の祈りをささげ、彼の使った書斎の椅子に腰かけ、身じろぎもせず黙想しました。
大江健三郎さんは、心理学者ロバート・J・リフトンさん(1962年、被爆者、医師をはじめ仕事や活動に被爆体験を生かしている人びと42名を面接調査した)との対談の中で、「アウシュビッツで生き残り、広島で生き延びた生存者の経験による知恵によって、人類は未来の大量虐殺、未来の全面核戦争に対して、想像力を働かし、それが起らぬよう強く抵抗しうるのだ」と感想を述べています。(1)
リプトン教授は確信しています。「広島とアウシュビッツのさまざまなイメージを人間の意識から払いのけようと、世界の非常に多くの人々が試みているが、これは、無益だというだけではない。そのような企てをするということは、われわれからわれわれ自身の歴史を奪いとり、われわれが現にそうであるところのものを奪いとることである」(2)
ヨハネ・パウロ二世が、広島と長崎へ来られたことは、アウシュビッツと広島・長崎のつながりを強く意識させてくれます。
教皇が「平和アピール」の中で繰り返し訴えられた「過去を振り返ることは、将来に対する責任をになうことだ」との呼びかけを心に刻まなければなりません。
アウシュビッツと広島・長崎の過去を振り返り、その意味を問い続け、想像力を駆使して、「戦争をひきおこすのも人間だが、その同じ人間が、立派に平和を創り出すこともできるのだという」信念を具現していくよう努めていくことを誓いましょう。ヨハネ・パウロ二世来広25周年にあたって。
(1)「ヒロシマの『生命の木』」大江健三郎NHK出版100頁
(2)同上111頁
参考文献
「平和アピール」ヨハネ・パウロ二世
「ヨハネ・パウロ二世日本の四日間」山内継祐フリープレス
「ヨハネ・パウロ二世愛と勇気の言葉」中井俊己PHP研究所