第54回 浦上四番崩れ流配地 鶴島巡礼のご報告
2025年10月13日(月/祝) 鶴島巡礼…白浜司教説教
・皆さん、私たちはミサの始めに
「ガリラヤの風かおる丘で」という聖歌を歌いました。海の方をご覧ください。ガリラヤ湖を思わせるような、本当に綺麗な海です。イエス様の話を聞くために、ガリラヤの丘に集まったあの群衆のように、皆さんは今日はるばる鶴島に集まって下さいました。本当にどうもありがとうございます。しかし、私はイエス様のように話が上手ではありません。でも、皆さん一人一人の心に、イエス様ご自身が語りかけて下さるよう、心からそう願っています。
・今私たちは2025年の通常聖年を過ごしています。
皆さんはこの聖年をどのような思いで今日まで過ごして来られたでしょうか。聖年には色々な意味がありますが、今日私は皆さんと一緒に二つのことを確認できたらと思っています。先ず第一番目に「カトリック教会が25年ごとに祝うこの聖年は、私たちが帰っていくべきところはどこか」を確認する年であるということです。皆さんもう私たちにとって、何処が帰るべき所であるのかについての迷いはありません。同時に第二番目に、「この地上での生活は、私たちが最後に帰っていくところに向かうための巡礼である」ということです。私たちは今日、この2つのことを改めて確認したいと思います。
・亡くなられた教皇フランシスコは、
この通常聖年を公布する文書の中で、「自分たちの身近にある信仰の証しを大切にしてください」と勧めていました。広島教区内には、幸いこのような「信仰の証し」を残して下さった方々を偲ばせる巡礼地が沢山あります。鶴島もその一つです。ミサの始めに鶴島のことについては詳しい解説がありましたので、私からは同じことをくり返す必要が無いと思います。この鶴島で3年ほど苦難の生活を送られた方々は、今日の第一朗読(列王記上21・1~16)に登場したナボトに似ていると思います。ナボトは「先祖から伝わる大切な土地を手放すことはできない」と言いました。私たちにも先祖から伝えられた大切な土地以上の信仰という恵みがあります。これを簡単に手放すことはできません。
・皆さん「旅は道ずれ世は情け」という諺があります。
江戸時代1660年頃に浅井了意という方が書いた「東海道名所記」という本の中にある諺だそうです。「旅は道ずれ」――旅には一緒に歩んでくれる仲間がいると心強い、「世は情け」――この世を過ごしていく上で、情けを掛け合う、互いに思いやることが大切であることを教えている諺です。今、私たちは最終的に帰っていくべきところを目指してこの地上で巡礼の旅を続けていますが、このことわざと同じことが言えると思います。同じ信仰を持っている仲間が一緒に歩んで下さるということは、どんなに心強いことでしょう。そして、日々の生活の中で、私たちが互いに愛し合うことは、イエス様が最も大切なこととして教えたことです。
・今私たちは信仰の自由な時代にいます。
本当に私たちは恵まれた時代を歩んでいます。しかし、見方を変えると「隠れた静かな迫害」が続いているとも言われます。「あなたは神様を信じているの?」、「神様なんか居ないんじゃないの?」、「神様を信じて生きるなんて、とんでもない。そんな人生なんてあり得ない!」、こういう神不在の考え方が拡がっています。こうした日本の社会の中で、ナボトのように「先祖から伝わったものを簡単には手放せない。イエス様が教えて下さった教えは真理である」という確信のもとに歩んでいくことは、たやすいことではありません。このような隠れた静かな迫害の時代に、私たちは今日鶴島に同じ信仰の仲間として集い、絆を深め合っています。そして、イエス様を信じる仲間として最も大切なことは、互いに愛し支え合いながら、隣人を愛する人々であるということを確認し合っています。このことが、「隠れた静かな迫害」に打ち勝つ一番大きな力です。
・今日の福音(ルカ9・23~26)の中で、
イエス様は「私について来たい人は…、日々自分の十字架を背負って私に従いなさい」と言われました。皆さんガリラヤの丘に集まった群衆は、ずっとそこに留まることは出来ませんでした。群衆はイエス様から「あなたの生活の場に帰りなさい」と解散させられたのです。イエス様が願っていることは、皆さんがそれぞれの生活の場で、イエス様の弟子として、色々な困難や苦しみの十字架をしっかり背負い、それをイエス様と一緒におささげすることです。
・信仰の恵みを
より多くの人々に理解していただくことは、容易なことではありません。しかし皆さんならできます。イエス様に結ばれた皆さんにはその使命があります。どうかこの鶴島で、流配者が体験されたあの苦難を、私たちは今日改めて自分の心に深く刻みたいと思います。皆さんは「鶴島ファミリー」です。この鶴島で起こった出来事を心に留め、自分の置かれた場で苦しみの十字架を背負い続けてください。それがイエス様の後に従っていく道、新しい殉教の道です。私たちがこれからも、同じ信仰の仲間としてともに歩むこと、そして、互いに愛し合うことを大事にしながら、この地上での巡礼の旅路を続けていくことができますように。