歴代教区長
-
初代教区長
- ハインリヒ・デーリング
- (イエズス会)
- 1923年-1928年
-
二代教区長
- ヨハネス・ロス
- (イエズス会)
- 1928年-1940年
-
三代教区長
- アロイジオ荻原晃
- (イエズス会)
- 1940年-1960年
-
四代教区長
- ドミニコ野口由松
- 1960年-1985年
-
五代教区長
- ヨセフ三末篤實
- 1985年-2011年
-
六代教区長
- トマス・アクイナス前田万葉
- 2011年-2014年
-
七代教区長
- アレキシオ白浜満
- 2016年-
広島教区は、1923年5月4日、中国地方の岡山、広島、山口、島根、鳥取の五県が大阪教区から分かれ、広島代牧区を設立、ドイツのイエズス会に委託された。初代教区長には、H.デーリング大司教が任命され、岡山に教区長館を置いた。
1928年、J.ロス司教が跡を継ぎ、1939年教区長館を広島に移した。1940年、ロス司教は教区長を辞任し、イエズス会員の荻原晃神父が教区長となった。
1959年6月30日広島代牧区は司教区に昇格、初代司教には野田時助新潟教区長が任命されたが、病気のため辞退、代わって野口由松師が任命され、1960年の5月8日に叙階され、広島教区長として就任された。
1985年野口司教の辞任により、同年3月29日長崎教区の三末篤實師が司教に任命され、同年6月16日司教に叙階された。2011年5月13日、三末司教の退任に伴い、長崎大司教区の前田万葉師が司教に任命され、同年9月23日に着座され、広島教区長に就任した。
2014年8月20日、前田司教は大阪教区大司教に任命され、同年9月23日に着座。それに伴い、広島教区は空位となり、肥塚たか(人偏に孝)司師が教区管理者を2016年9月19日まで務めた。
2016年6月28日、長崎大司教区の白浜満師が司教に任命され、同年9月19日に着座され、広島教区長に就任し現在に至る。
歴 史
1549年、鹿児島に上陸したフランシスコ・ザビエルは、翌年大内氏時代の山口でキリスト教宣教に着手している。しかし、1551年防長両国を支配した毛利元就によって山口の教会は閉鎖される。毛利元就の子、輝元の時代になると他のキリシタン大名の影響もあり、信徒の数も増加した。しかし、豊臣秀吉の禁教令(1587年)以後、多くの殉教者を生むことになる。1597年の日本二十六聖人殉教者のうち、最年長のディエゴ喜斉は岡山県芳賀の出身である。1870年、浦上のキリシタンの流刑(浦上四番崩れ)により、津和野(島根県)、鶴島(岡山県)などで殉教の血が流されている。
中国地方の再宣教は、1880年パリ外国宣教会ワスロン神父のフランス語教師としての岡山赴任に始まる。1882年(広島)オリエンチス神父、1888年(山口)コンパニオン神父が宣教を開始している。この時期多くのパリ外国宣教会神父が、献身的に宣教活動に従事していた。
1923年大阪司教区から中国五県(広島、岡山、鳥取、島根、山口)が、ドイツのイエズス会に委託され、広島代牧区教区の初代教区長にヘンリクス・デーリング大司教が任命され、岡山に教区長館を置いた。1928年、デーリング大司教の前任地インドへの赴任に伴い、ヨハネ・ロス司教が任命され、1939年、中国地方の中心広島に教区長館を移した。1940年ロス司教は教区長を辞任、荻原晃神父が後任の教区長となった。
戦争の激化に伴い、修道女は収容所に収容され、司祭の中には刑務所に収容されるなど官憲の干渉も激しくなった。広島教区最大の聖堂であった岡山教会は、1945年の岡山大空襲によって消失した。同年8月6日には原子爆弾が広島に投下され、市の中心部は壊滅し、教会の施設も消失したが、当時教会にいた数人の司祭、神学生、信徒も爆死を免れた。戦後、同所に聖堂、寝室、居間兼用の三畳のバラックを建て、クリスマスには、世界の平和のためにミサが行われた。被爆したフーゴ・ラサール神父(1948年日本に帰化、愛宮真備となる)は、戦争犠牲者と世界の恒久平和を願って新聖堂建設を準備し、教会関係者だけでなく、広く市民の協力のもとに1954年8月6日に現在の世界平和記念聖堂が献堂された。
この後、1959年広島代牧区から広島司教区に昇格、初代司教に野口由松神父が任命され、1960年司教に叙階され、広島教区長として就任した。この間、1951年から岡山県、鳥取県がイエズス会から淳心会に移管され、1997年広島教区に移管されるまで両県の宣教司牧を担当することになる。
1981年、教皇ヨハネ・パウロ二世は、広島を訪れ「広島を考えることは核戦争を否定することです。過去を振り返ることは将来に対する責任を担うことです」と全世界に向かって訴えられた。教皇ヨハネ・パウロ二世の広島平和アピールとして知られるこのメッセージは、広島教区に「平和の使徒」として働く使命を与えたばかりでなく、広島市民にも大きな感銘を与えた。1985年野口由松司教の辞任により、同年4月長崎大司教区の三末篤實神父が司教に任命された。同年6月16日に司教に叙階され、広島教区長に就任し今日に至っている。
22年前の平和アピールから広島教区としての固有の使命を呼び覚まされ、1995年の被爆50周年「広島教区平和年司教教書」では、広島教区民の使命を「平和の使徒」と明言し、「私たちの日々の小さな積み重ねが、平和の輪を少しずつ拡げていきます」と促した。組織としても、「平和の使徒推進委員会」が生まれ、2001年には「平和の使徒推進室」となり活動をしている。