わたしの選ぶ断食とは――四旬節の心を生きる
「復活祭の準備の期間を四旬節といいます。復活徹夜祭で洗礼を受ける洗礼志願者の最終的な準備期間であり、またすべての信者が祈りと犠牲と愛の行いをもって、主の復活を迎える準備をする期間でもあります。
四旬節は復活祭の四十六日前にあたる灰の水曜日から始まりますが、それは六つの日曜日を除く四十日間に断食するという初代教会の習慣に由来するといわれています」(1)
今年の「灰の水曜日」は3月1日で、この日から四旬節が始まります。
断食は、四旬節のイメージを代表するものです。
「葦のように頭を垂れ、粗布を敷き、灰をまくこと
それを、お前は断食と呼び、主に喜ばれる日と呼ぶのか。」(イザヤ58・5)
「何故あなたはわたしたちの断食を顧みず、苦行しても認めてくださらなかったのか。」
(イザヤ58・3)とのイスラエルの民の問いかけに対しての、預言者を通しての神からの答えです。
神は、真の断食とはなにかをはっきりと教えます。
「わたしの選ぶ断食とはこれではないか。
悪による束縛を断ち、くびきの結び目をほどいて
虐げられた人を解放し、くびきをことごとく折ること。
更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え
さまよう貧しい人を家に招き入れ
裸の人に会えば衣を着せかけ
同胞に助けを惜しまないこと。」(イザヤ58・6~7)
本田哲郎神父さんは、「イザヤ書」のこの箇所を次のように読んでいます。
「断食とは、神との一致を求める行為であり、神の在り方に自分を近づけていく上で、妨げとなることを断つことであるのに、神の望みとは裏腹なことを並行して行っている人々に対して、神は果たすべきことを果たしなさいと命じられます。
果たすべきことの第一は、“正義”の実践です。「悪」(レシャー:不正な抑圧)による「束縛」(足枷)を断ち、権力者が自分たちに都合よく統御するために人々の肩に取り付ける「くびき」のひもの結び目をほどいて、正義に反する管理統制によって虐げられている人を解放することです。そして、ついには抑圧の構造をもつ管理体制そのもの、「くびき」を「折る」(ナタク:打ち壊して使えなくする)ことです。ものすごい強烈な言葉です。社会正義の実践がいかに大事であるかが分かります。
果たすべき第二のことは、“福祉”の活動です。今、食べるものがなくて「飢えている人」に対しては、自分が食べる分の食糧(パン)さえも「裂いて分け与える」ことであり、追放されてさまよう「貧しい人」(アニイム:抑圧された人)については、彼らを施設にではなく、「自分の家に招き入れる」ことであり、また“裸の人”に会ったら「服を着せ」、自分の身体の一部とも見なすべきそのような人々から身を隠すようなことはしないことです。
この“同胞”と訳された語(あなたの肉の部分)は他に用例が見当たらないので正確な意味は分かりませんが、親戚とか同国人と理解するより、相手が誰であれ、その人は“あなた自身の一部”である、すなわち“あなたの身の内、身内”と理解すればよいと思われます。イザヤ書は民族や国家の枠を超越した感覚で語られる預言書だからです。」(2)
今年の四旬節が、神の好まれる断食、つまり、社会正義の実践と福祉の活動をどんな小さなことでも実行する挑戦と喜びの季節となりますように。
「従来、社会一般には、弱者に対する福祉的な対応は多少意識的になされて来ましたが、彼らの人権を尊重し、守るという視点に立った正義の面からの対応が、一部の例外を除いて、ほとんどなされていないように思われます。福祉的な対応は、そのつもりがなくても、憐れみや同情から出る“施し”になってしまいがちです。福祉活動だけが先走って活発になればなるほど、与える側ともらう側というおかしな位置関係ができてしまうものです。むしろ、弱者の人権尊重を主眼とした社会正義のための活動と戦いの中にこそ、福祉は位置づけられるべきものと言えるでしょう。」(3)
(1)「カトリック教会の教え」カトリック中央協議会207頁
(2)「イザヤ書を読む」本田哲郎みすず書房218頁
(3)同上219頁