「一番電車」が走った!
今年、広島は被爆60周年という節目の年を過ごしています。
原爆ドームなどわずかに60年前の悲劇を記念する被爆建物が残っていますが、広島の町の様相は一新されています。
廃墟と化した広島の町の復興への努力、新しい町づくりの営みは、未曾有の体験をした人々自身の手によって始められました。しかも、人類が始めて使用した核兵器の実相についてまだなにもわかっていなかった原爆投下のその直後から。
このことを想うと、いつも感動を覚えます。
被爆からわずか三日後の八月九日には、焼け野が原をチンチン電車が走ったのです。己斐~西天満町間の一・数キロを単線で折り返し運転するだけでしたが、奇跡的な復旧でした。
チンチン電車が走る姿は、失意と虚脱感の中にいた広島市民に大きな光と希望を与えました。
ほぼ壊滅的な被害をうけ、しばらくは再起不能かと思われた広島電鉄は、爆心地から西に一五キロ離れたところに唯一残った廿日市変電所から送電し、被爆後の「一番電車」を走らせたのです。
平和都市広島への力強い第一歩でした。
広電白島線 八丁堀電停にて
60年後の今の広島は、チンチン電車の町として知られています。愛好家の間では「動く路面電車の博物館」と呼ばれ人気を博しています。色も形もさまざまな電車が町の真ん中を走っています。
なんと「650型」といわれる被爆した電車が今も現役で走っています。
路面電車を廃止した他都市から、大阪や京都、神戸、北九州から、またヨーロッパからも移入された電車の姿もあります。
広島電鉄オリジナルの最新鋭の車両も動いています。
まさに「路面電車の博物館」です。
広電銀山町電停付近にて
1945年8月6日午前8時15分、被爆した電車は70両。その運転士と車掌のおよそ7割が14~17歳の女学生だったそうです。
「広島電鉄家政学校」。少女たちは、女学生運転士・車掌の養成学校に通いながら電車に乗務していました。男たちが戦場に駆り出され、運転士や車掌が不足し、その空席を埋めるためでした。
戦時中の1943年春に開校し、被爆までのわずか二年半だけ存在した「幻の女学校」です。
広島県生まれのテレビディレクター堀川恵子さんとフリージャーナリスト小笠原信之さんが、この少女たちの原爆秘史ともいうべき「チンチン電車と女学生 1945年8月6日・ヒロシマ」(日本評論社)を今夏出版されました。
60年前に広島で起こったことを学び、ヒロシマを語り継いでいくための必読の書としてお薦めしたいと思います。
(この文は、前掲の「チンチン電車と女学生」を参考にさせていただきました。)