Santa Maria no go‐zo wa doko?

 

 

 これは、1865年3月17日、後に歴史的事件として記録されることになった長崎信徒発見の出来事を、横浜のパリ外国宣教会日本管区長ジラール神父に報告する翌3月18日付けのプチジャン神父の手紙のことばです。
 「サンタ・マリアのご像はどこ?」と尋ねた浦上キリシタンのことばを、ローマ字日本文で書いていることにプチジャン神父の驚きと喜びが伝わってきます。(1)
 同じ年の2月19日、日本26聖人殉教者にささげられた大浦天主堂は献堂式を祝ったばかりで、その美しさと荘厳さは長崎の人々の目を瞠らせたといいます。
 その聖堂へ、十余名の男女がやってきて、「ワレラノムネ、アナタノムネトオナジ」と語り、続けて「サンタマリアのご像はどこ?」と質問したのです。
 このことばは、1597年の日本26聖人の殉教から始まったキリシタン迫害の二百七十年の歴史を要約するものです。
 公式の教会活動が禁じられ、宣教師・聖職者も全く不在の中で、正統的な信仰が継承され守り続けられたのは、信仰史上稀有なことです。

 

 今年は、長崎信徒発見140周年の記念すべき年です。

 

 キリシタン発見という宗教的大事件は、日本におけるキリスト教宣教の新しい時代の夜明けを告げるものでした。キリシタン禁制時代の重い沈黙を破って多くの信徒たちが名乗り出てきました。
 しかし、徳川幕府の邪宗門切支丹禁制は継続され、「浦上四番崩れ」という一大検挙事件へと発展し、信徒たちは逮捕、投獄、拷問の過酷な十字架の道を歩くことになりました。
 1868年、明治維新後も、新政府はキリスト教弾圧の政策は変えず、信仰堅固な指導者と目された114名が、萩、津和野、福山へ配流されました。(奇しくも、三箇所とも広島教区に属しています。)
 1870年には、浦上のキリシタン一村三千数百人の総流罪が実行されました。
 彼らは、これを「旅」と呼びました。

 

 5月3日(火)、津和野では、今年も盛大に「乙女峠まつり」が祝われました。
 ただ単に、生命を賭けて信仰を守り抜いた「殉教」を称えるだけでは足りないと思います。
 信徒発見から総流罪へのドラマは、基本的人権としての「信教の自由」のための、素朴な浦上キリシタンと明治の知識人との対決であったことは忘れてはならない大切なことです。
 このことを先覚的に指摘した大佛次郎さんの文章を紹介します。

 

 

 「政治権力に対する浦上の切支丹の根強い抵抗は、目的のない『ええじゃないか踊り』や、花火のように散発的であった各所の百姓一揆と違って、生命を賭して政府の圧力に屈服しない性格が、当時としては出色のものであった。政治に発言を一切許されなかった庶民の抵抗として過去になかった新しい時代を作る仕事に、地下のエネルギーとして参加したものである。新政府も公卿も志士たちも新しい時代を作る為になることは破壊以外に何もして居なかった。浦上の四番崩れは、明治新政府の外交問題と成った点で有名と成ったが、それ以上に、権力の前に庶民が強力に自己を主張した点で、封建世界の卑屈な心理から脱け出て、新しい時代の扉を開く先駆と成った事件である。社会的にもまた市民の『我』の自覚の歴史の上にも、どこでも不徹底に終わった百姓一揆などよりも、力強い軌跡を残した。
 文字のない浦上本原郷の仙右衛門などは自信をもって反抗した農民たちの象徴的な存在であった。維新史の上では無名の彼は、実は日本人として新鮮な性格で、精神の一時代を創設する礎石の一個と成った。」(2)

 

 「浦上切支丹の『旅の話』は、この辺で打切る。私がこの事件に、長く拘り過ぎるかに見えたのは、進歩的な維新史家も意外にこの問題を取上げないし、然し、実に三世紀の武家支配で、日本人が一般に歪められた卑屈な性格になっていた中に浦上の農民がひとり『人間』の権威を自覚し、迫害に対しても決して妥協も譲歩も示さない、日本人としては全く珍しく抵抗を貫いた点であった。当時、武士にも町人にも、これまで強く自己を守って生き抜いた人間を発見するのは困難である。権利という理念はまだ人々にない。しかし、彼らの考え方は明らかにその前身に当るものであった。」(3)

 

 (1)片岡弥吉「長崎のキリシタン-信者発見物語-」信者発見百周年実行委員会、80頁
 (2)大佛次郎「天皇の世紀 九」朝日新聞社、202頁~203頁
 (3)同上 342頁