「希望の種子」
皆さんの青い地球に核兵器(おとしだま)
               高橋 龍

 

 約40年前に人間は人工衛星に乗り、初めて宇宙から地球を眺め、青くて美しい、と賛嘆の声を発しました。しかし、核弾頭を装着したミサイルがいつ飛んでくるかわからない物騒な世の中、喜んでばかりいられない、と諧謔の一句だと評されています。

 

 3月になりました。
 3月1日は、「ビキニデー」です。 
 1954年3月1日、太平洋のマーシャル諸島ビキニ環礁で、米国が行った水爆実験により、静岡県焼津市のマグロ漁船「第五福竜丸」が被曝し、乗組員23人が「死の灰」を浴び、無線長の久保山愛吉さんが死亡しました。
 広島と長崎への原爆投下から9年。「第三のヒバク」ともいわれるこの事件は、あらためて核に対する恐怖を喚起させ、反核運動へとつながる転機にもなりました。

 
 一年後の1955年には、核廃絶に積極的役割を果たすよう世界の知識人に訴えた「ラッセル・アインシュタイン宣言」が出され、第一回原水爆禁止世界大会が広島で開かれました。
 しかし、最近は、昨年50周年を記念した「ビキニデー」への関心が薄れていると言わざるをえません。

 

 世界に核廃絶を訴え続け精力的に活動しておられた「プルトニウム・アクション・ヒロシマ」代表の大庭里美さんが、2月24日(木)に急逝されました。2月26日(土)の新聞で突然の訃報に接し、ただ驚くばかりでした。
 大庭さんは、チェルノブイリ原発事故の後、子どもたちを核被害から守ろうと運動を起し、1991年に「プルトニウム・アクション・ヒロシマ」を結成し、反核・平和運動を続けていました。大庭さんは、核兵器だけではなく、原子力発電をはじめとする核エネルギーの商業利用や宇宙の核軍拡にも反対の立場を貫き、得意の英語力を生かし度々海外にも出かけ、反核文献の翻訳にも取り組んでいました。

 

 

教皇ヨハネパウロ2世の胸像下の碑文
(世界平和記念聖堂)

 

 大庭さんのことを最初に知ったのは、1981年2月来広され、「ヒロシマを考えることは核戦争を拒否することです」と宣言された教皇ヨハネ・パウロ二世のことを新聞に投稿された記事を通してでした。
 1995年8月、被爆50周年を記念して開かれたカトリック正義と平和全国集会、2001年9月の広島教区司祭大会に、講師として大庭さんに協力していただいたことを忘れることはできません。
 今年5月にニューヨークで開かれる核拡散防止案(NPT)再検討会議に向けてエネルギッシュに行動されていた最中の死でした。54歳というのは早すぎる死です。

 

 大庭さんは、核関連の世界情勢を紹介するために機関紙「希望の種子」を発行し続けていました。
 残されたわたしたちは、大庭さんの世界平和と核廃絶への熱い思いと高い志を継承し、「希望の種子」を蒔き続ける決意を新たにしたいと思います。
 わたしたちが蒔く種子が、大海の一滴のように、どんなに小さなものであっても、いつかきっと芽を出すという希望を力にして。