「平和の巡礼者」ヨハネ・パウロ二世
2月です。
この月は、広島教区にとっては、教皇ヨハネ・パウロ二世が「平和の巡礼者」として広島を訪問された月として、いつまでも記憶される月となっています。
毎年平和記念行事も続けています。
1981年2月25日、小雪の舞う寒い朝、教皇は人類史上最初の被爆地広島の地を踏まれました。
当時の中国新聞社論説主幹であった熊田重克さんは、次のように書いています。
「ヒロシマで長い間、新聞記者生活を送ってきた私にとってふに落ちないことがあった。
それは日本を訪れる各国の元首や政府首脳がヒロシマとナガサキを訪れることは皆無に近かったことである。・・・・・・・・・・・・・・
その意味で今度のローマ法王のヒロシマ・ナガサキ訪問の意義は決して小さくなかったはずである。
カトリック信者の頂点に立ち、またバチカン公国の元首であるローマ法王、ヨハネ・パウロ二世のヒロシマでの平和アピールは私のような異教徒を含めて、世界の人々の魂を揺さぶったに違いない。」 *1
ヨハネ・パウロ二世が平和記念公園で「平和アピール」を発表されたことはよく知られています。
しかし、もうひとつ忘れてならないことは、その後教皇は、被爆体験者の高橋昭博館長の案内で平 和記念資料館(原爆資料館)を見学され、被爆証言を聞かれ深い感銘を受けられた後、国連大学と広島市共催の講演会で講演されたことです。
「技術・社会そして平和」と題された講演でした。
「広島と長崎、歴史上、これほどまでに人間の良心を揺さぶった事象は数多くはありません。最初の原子爆弾の爆発が世界中に巻き起こした道徳的危機に、科学者たちも人一倍心を痛めました。 人間の知能は、まさに恐るべき発見をしてしまったのであります。核エネルギーが今後、徹底的破壊の武器として利用し得るようななったことを、私たちは恐怖をもって認識したのでありました。次いで私たちは、この恐ろしい兵器が現実に、初めて、軍事目的に使用されたことを知ったのでありました。」 *2
核兵器を発明した人類は、自らの手で人類と世界を破滅させることも可能であることを、ヒロシマは訴えています。
1945年8月6日は、人類の歴史の新しい始まりを刻む日だと多くの人が考えています。
「この時代を私は『広島後の時代』と呼びたい」と教皇は語られました。
「過去においても、一つの村、一つの町、一つの地域、あるいは一つの国であろうと、それを全面的に破壊することは可能でありました。今や脅威にさらされているのは全地球であります。この事実は、究極的に万人を根本的な道徳的命題に直面させるものであります。すなわち、今後、人類の生存は自覚的選択と熟慮された政策によってのみ可能であるという命題であります。私たちが迫られている道徳的、政治的選択は、知性、科学、文化の全資源を、平和と新しい社会の建設とに奉仕させるという選択であり、その新しい社会とは、各個人、全人類の全面的進歩を飽くことなく追求することによって、兄弟が殺し合う戦争の原因を根絶する社会であります。」 *3
教皇来広から24年経った今も、軍事力を軸とした「力の政治」が世界を支配しています。
対話と相互理解による「共生・協調の政治」へと転換を実行する努力を続けていきましょう。
広島教区は、今年も2月20日(日)と2月25日(金)に教皇来広記念平和行事を行います。
「私たちは選択を迫られています。人類が軍備に投じる費用は開発に投じる費用よりはるかに大きいことを知りながら、一人の兵士の装備は一人のこどもの教育よりはるかに高価であることを知りながら、私たちは受身にとどまっていてよいものでしょうか。」 *4
*1 「平和への道」教皇ヨハネ・パウロ二世来広記念文集、カトリック正義と平和広島協議会・平和を願う会、24頁
*2 広島・国際連合大学における講演「技術・社会と平和」(「教皇ヨハネ・パウロ二世訪日公式メッセージ」カトリック広報委員会監修、81頁
*3 同上 83頁
*4 同上 89頁