「これから・・・・」

 

 8月5日(木)午後7時半、世界平和記念聖堂献堂50周年記念平和祈願ミサが教皇大使列席のもとに捧げられました。
 広島教区は、この記念すべき年を「こころを一つにして平和を宣べ伝えよう」という目標を掲げ、原爆犠牲者の慰霊と恒久平和を祈り続ける聖堂建設を思い立ったフーゴ・ラッサール(愛宮真備)神父の熱い願いを学び、世界平和記念聖堂の持つ意味とメッセージを具体的な行動につなげていくよう努めています。
 しかし、ただ記念行事を滞りなくこなすだけで満足していないか、大いに反省しています。 
 世界平和記念聖堂が発信するメッセージ「真実・正義・慈愛」を、現代という時代にどのように実現していくのか。これは、広島教区が真剣に取り組むべき課題であり、担っていかなければならない責務でもあります。

 

 何をしなければならないかを考えるためのヒントになる二つの意見を紹介します。

 

 (1)世界平和記念聖堂献堂25周年(1979年)に関する「中国新聞」のコラム欄「天風録」から。

 

「西ドイツからは平和の鐘やパイプオルガン、オーストリアからはステンドグラス、スペインからは聖櫃(ひつ)も贈られている。平和の鐘は、第二次世界大戦の武器で鋳造された。いずれも「ヒロシマへ」と刻まれている。
 だが宗派、国境を超えた祈りの聖堂も、なぜか一般の関心が薄い。原爆資料館の入場者百万人(昨年)に比べ、聖堂を訪れる観光客は数千人に過ぎない。
 広島教区の司教座聖堂の機能を持つ聖堂であってみれば、アイスクリーム片手の“観光インベーダー”に来襲されても困るわけだが‐。ヒロシマに託された世界の祈りと、教会活動をどう両立させるか。教会、広島市ともども、献堂の原点に立ち返って妙策を考えてもらいたい。」

 

 (2)石丸紀興著「世界平和記念聖堂  広島にみる村野藤吾の建築」(1988年 相模書房)から

 

 「世界平和記念聖堂は、今後、信者や教会関係者によって直接的に使用され、維持管理されていくことはいうまでもあるまい。記念聖堂は宗教建築としての本来の役割を充分に果たすであろうし、またそうでなければならない。
 しかし、記念聖堂は、それだけの建物ではないはずである。それ以上の使命とそれに対応し得る空間も保持しているはずである。記念聖堂が建設される過程で、またその後の時間的経過においても、多くの人たちが直接、間接の関わりを示した。市民は、この記念聖堂の建設に有形無形の支援を果たしたのであり、また記念聖堂の存在とともに日々暮らしてきた。外国からは、絶大な援助が届いたのであり、記念聖堂の空間を豊かなものとすることに貢献した。
 率直にいって、幟町教会に属する信者のためだけであれば、あれだけの規模、あれだけの設備、聖具、あれだけの空間は必要ないといえる。あの記念聖堂の建設は、聖堂のより市民化、より世界化を意図したものではなかったか。記念聖堂の建築は、そのような意図を体現しているといえないだろうか。」


 「今一度、記念聖堂建設の始原の目的に還ろう。なぜ、世界平和記念聖堂を建設したのであろうか。
 それは、原爆犠牲者を弔い、世界平和の実現を祈る場として建設されたのであった。愛宮神父は、偏狭な民族主義的平和論、国家主義的平和論を排し、世界の平和を説いたのであった。
 しかし、世界平和と記念聖堂がどのように結びつくのか、ことはそれほど簡単ではない。
 恐らく、建築に何かを期待するとしても、結局は、そこに関わり、そこに意味を見出す人間の存在こそが重要である。記念聖堂が世界平和を希求する建築であるとしても、それは、象徴的な意味の域を出るものではなかろう。しかもその象徴を意味づける人間がいて、初めて象徴となるのである。」

 

 (1)と(2)、引用が長くなりましたが、貴重な提言であり、これからのわたしたちの活動の方向性を示唆してくれるものであると思います。