「静かに歩いてつかあさい」
「今は 新しげな建物のえっと見える
この川辺りの町全部が
昔は
大けい一つの墓場でしたけん」
水野潤一さんの「静かに歩いてつかあさい」という詩の冒頭のことばです。
大田川のデルタの上に立つ広島の町は、59年前、ほんとうに大きな墓場となったのでした。
今年、被爆直後に負傷者一万人以上が運ばれたとされる広島港の沖に浮かぶ似島で、85体の遺骨と遺品65点が見つかりました。
似島だけではなく、ほかの場所でも、今もなお、発見されるのを待っている遺骨や遺品が眠っていることは想像に難くないことです。
似島で見つかった原爆死没者の遺品の中に「内谷」と刻まれたプレート(縦4.5センチ、横3センチ)がありました。それは、当時15歳の広島女子商業学校二年生だった内谷節子さんのプレートではないかと現在77歳のお兄さんが名乗り出られ、確認されました。
内谷節子さんは、1945年8月6日、鶴見町での建物疎開作業中に被爆し、行方不明になっていました。59年ぶりに兄妹の再会が実現したのです。
「そりゃ、ずい分兵隊さんで行った人が多いですけど、そういう人は心して別れをしてるでしょ、お互いにね。これが最後かもわからん、いう思いがありますよね。あの日に広島市内であんな目に遭った人は皆、それこそ日常だからね、何にもこと改めてね、この食事が、この出会いが最後とは思わんですからね。それでもう、一生会えなくなって、どこにおるかもわからんようなってるしね・・・・・」(“「原爆の絵」と出会う”直野章子・岩波ブックレット)
原爆が落とされた朝以来、弟と再び会うことはなかったひとりのお兄さんの嘆きです。
似島の発掘調査の結果を想う時、「あの日」は、決して過去の時ではなく、今も続いている現在なのです。他にも多くの「内谷」さんが存在しています。
被爆の体験者でないわたしは、広島の町の「地面の底の底」や被爆者の「心の中の中」、そして、そこにつまっている「沢山の人の涙」が見えていないことを痛切に感じます。
せめて、「大けい一つの墓場」である広島の町を歩く時は、そっと静かに歩くことを大切にしたいと思います。
「ほいじゃけん
広島に来んさる人々よ
この町を歩くときにゃあ
こころして
歩いて行ってつかあさいや・・・
のう・・・」
水野潤一さんの詩の結びのことばです。