欄間彫刻(Part3)

 

解 説

彫刻4「聖体の秘跡」

 

 大きく手を広げて天から降ってくる「いのちの糧」を、しっかりと受けとめようとする一人の人の姿が浮き彫りされています。
 パンのかたちをした「いのちの糧」には、十字架が刻んであります。

 

 イエスは言われました。「わたしは、天から降ってきた生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」(ヨハネ6・51)
 そして、十字架の死を目前にした弟子たちとの最後の晩さんの席で、イエスは「聖体の秘跡」を制定されました。「主イエスは引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、『これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。』と言われました。」(1コリ11・23)

 

 「聖体」とは、イエスが「記念としてこのように行いなさい」と命じられたように、主イエス・キリストの死と復活を記念する「ミサ」において聖別された「キリストの体」のことです。
 カトリックの信仰は、復活されたキリストが「聖体の秘跡」のうちにおられることを宣言します。「聖体」は「ともにおられる神」の神秘をもっともよくあらわし、キリストは「聖体」において、世の終りまでいつもわたしたちの人生の真っ只中に現存し、「いのちの糧」として留まり、わたしたちを救い、いやし、永遠の生命へと導きます。
 「聖体の秘跡」は、キリスト者の信仰生活の源泉であり頂点でもあります。

 

 「『聖体の秘跡』は、十字架上の奉献を世々に永続させる秘跡、主の死と復活を記念する秘跡、キリストがご自身を奉献しいのちの糧として与える秘跡、イエス・キリストを現存させる秘跡、たえず教会を生かし成長させる秘跡です。」(「カトリック教会の教え」、カトリック中央協議会、209頁)

 

 「聖体の秘跡」にあずかる者は、「世を生かすために」ご自身をいけにえとして奉献されたイエスの生き方を自分のものにする、つまり「平和の使徒」となる使命が与えられています。

 

 「聖体にあずかる者はだれでも、自分の生活を変え、自分の生活をある意味で完全に『聖体に生かされた』ものにしていくよう導かれます。このように、生き方を変容させ、福音に基づいた世界の変革へと取り組むように促すこと、これこそが、感謝の祭儀と、キリスト教的生活全体のうちに含まれた終わりの日への期待をはっきりと示すものなのです。」(教皇ヨハネ・パウロ二世回勅「教会にいのちを与える聖体」n.20)

 

彫刻5「ゆるしの秘跡」

 

 十字架に磔にされた主イエス・キリストの前に、頭を低くたれ、腕で胸を打ちながら、ひざまずいている人の姿が刻まれています。
 このイメージは、イエスの話されたたとえ話の中の登場人物を思い起こさせます。

 

 「ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』」(ルカ18・13)
 イエスは、この人を祈る人の模範とされました。

 

 「ゆるしの秘跡」は、イエス・キリストの受難と死、そして復活は、すべての人に罪からの解放をもたらしたという福音に基づいています。

 

 「復活したキリストは弟子たちに聖霊を注ぎながら、『聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがゆるせば、その罪はゆるされる。だれの罪でも、あなたがゆるさなければ、ゆるされないまま残る。』(ヨハネ20・22-23)と言われ、使徒たちとその後継者に、教会の努めを通して罪をゆるす権能を与えました。」(「カトリック教会の教え」、カトリック中央協議会、216頁)

 

 「ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、『どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか』と言った。イエスはこれを聞いて言われた。『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。』」(マルコ2・16-17)

 

 罪人と一緒に食事をするイエスこそ、イエスが誰であるかを明らかにし、イエスを通してあらわされる父なる神の限りないあわれみ、いつくしみ、愛、ゆるしを最もはっきりと示しています。どんな人も神の手から落ちこぼれることはない、神のふところからはじき出されることはないと。
 「福音の中の福音」と言われる父なる神の愛の心を説く三つのたとえ話(「見失った羊」、「無くした銀貨」、「放蕩息子」)は、やはり、イエスが「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」との批判に答えて、話されたものです。(ルカ15章参照)

 

 「ゆるしの秘跡」は、「罪人を招くために来た」とやさしくわたしたちを招いておられる
イエス・キリストに出会うこの上ない喜びを与えてくれるものです。

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