広島地区女性連合会宮津巡礼                         2014年10月8日(水)〜9日(木)

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広島地区女性連合会宮津巡礼

広島地区女性連合会 2014年10月8日(水)・9日(木)
キリシタン巡礼  宮津、京丹後  同行司祭 斎藤神父様
丹後地方は、戦国時代から徳川初期に掛けて多くのキリシタンが住んで居た、切支丹ゆかりの地です。

1) 8日(水)ミサ聖祭宮津教会 巡礼指定地。 宮津教会は地元の人々から『天主堂さん』と呼ばれている教会堂です。 1885年9月27日(明治18年)司祭叙階を受けた パリミッションのルイ・ルラーブ神父は直ちにフランスから日本に派遣され、12月21日神戸に上陸、3年間日本語を学び1888年(明治21年)12月宮津に来ました。
旅館筆屋の主人の斡旋により、地元の日置村で旧家の田井五郎衛門の貸家を借り、若狭から但馬の区域を宣教しました。 田井五郎衛門は結核に掛かり、東京の北里養生園で療養、重体に陥りました。その時出逢ったビグルス神父から受洗、翌朝から日を追って回復しました。ビグルス神父に御礼に行くと、神父は「宮津にはルラーブ神父が居るので彼を訪ねなさい」と言われました。宮津に帰るや、感謝の記しとしてルラーブ神父に貸家と周囲の土地を全て寄贈しました。現在の教会の在所です。此の事は丹後地方に大きな反響を呼び、信徒数が増えて来たので1895年、ルラーブ神父が設計し、地元の棟梁大井正司が教会堂の建設に着工し翌年の1896年5月6日、洗礼者聖ヨハネを保護聖人として献堂しました。 丸い欅の柱、ロマネスク式(こうもり型)天井、鮮やかなステンドグラスと祭壇はフランスから直輸入、床は畳敷きで、118年の歳月を重ね、今も毎週ミサ聖祭が捧げられています。現役の聖堂としては、日本で最も古い教会堂です。
日本でのルラーブ神父の宣教活動は56年間に及び83歳で帰天しました。
●1950年(昭和25年) 丹後地方が、大阪司教区から京都司教区に移管されて以来、レデンブトール修道会が、此の地方全域の宣教司牧を今日に至るまで担当しています。
1989年(平成元年)ルラーブ神父の来宮津100周年を記念して、信徒会館『ルラーブ会館』を建設しました。
2) .細川ガラシャ銅像 2013年11月15日除幕式 ガラシャ生誕450年を記念して『ふれあい広場』に建立されました。高さは4m台座の祈りの揮毫は 細川家18代当主 細川護煕氏。
3) .国清寺(こくしょうじ)のキリシタン燈籠*山門を入って右手にキリシタン燈籠があります。
臨済宗 国清寺は1683年(天和3年)頃京極高広の室 (キリシタン大名池田輝政の娘)が、実父追福の為建立した寺院。
4) 京都府立丹後郷土資料館は国分寺跡の中に在り縄文時代の土偶、石斧、土器等や弥生時代の鉄斧、ガラスの小玉、銅鐸(複製)、古墳時代の銅鏡等を解り易く展示。
二階の展示品では、紺地に丹後の絵絣を織り込んだ素朴で美しい布や着物を見学しました。
5) 橋立ベイホテル・夕食
6) 9日(木) 細川ガラシャ:遺跡 京丹後 味土野(みどの)  山路はタクシー利用
*天正10年6月2日の本能寺の変後、細川幽斎と忠興の計らいで、ガラシャは隠棲生活を味土野で約2年間過ごしました。ガラシャ隠棲の地で私達は記念碑を囲み、受洗に至るガラシャの心に想いを馳せました。
7) 丹後の国の一の宮・籠神社(木の狛犬一対・重要文化財)〜ケーブルカーで傘松公園に、天の橋立と青い宮津湾を眺望しました。
8) 天の橋立を、遊覧船で見学。
9) 智恩寺 臨済宗 808年(大同3年)建立。文殊の知恵で知られている文殊菩薩をまつる寺院で、文殊の大樹、重要文化財の多宝塔石造等が有り、裏手にマリア燈籠があります。
10) 盛林寺 細川ガラシャが、実父の明智光秀を供養して首塚を建立しました。

その他 キリシタンゆかりの地
*ヨハネ京極高広は、関が原の合戦の後、宮津に入り城下町としての整備をしました。
明治4年の廃藩置県の時、城は取り壊されました。
*内藤ジョアンは京都で受洗、ルイス・フロイスを八木城にお迎えする等熱心な宣教活動を
していました。 1614年 家族と共にマニラに追放され、1626年マニラで病没しました。
*野田町山田にマリア地蔵と呼ぶ、御子を抱えて 雲の上に座した石造の聖母があります。

★細川玉子 キリシタンへ
1584年 細川忠興は、イエス・キリストの話を高山右近から聞き玉子に話す。玉子はその教えに心を惹かれていった。
1587年 細川玉子は25歳の時、大阪の教会を訪問。教会は復活祭を祝っていた。
玉子は、日本人のコスメ修道士に種々の質問をした。
イエズス会セスペデス神父のはからいで、大阪玉造の細川屋敷で受洗し、セスペデス神父から、洗礼名 ガラシャ(神の恵み・恩寵・グラッチア)を授かった。
1595年 ガラシャは忠興にイエス・キリストへの信仰を告白、忠興は屋敷内に小さな小聖堂を造る。
1600年7月17日 ガラシャは石田三成の計画による大阪城入りを拒否。家老の小笠原秀清の介錯で帰天した。 秀清等は直ちに屋敷に火を点けて共に自刃した。
数時間後、オルガンチノ神父はガラシャの骨を拾い、堺のキリシタン墓地に葬った。
1601年 忠興はガラシャの一周忌に、オルガンチノ神父司式の教会葬を大阪で行った。
のち、小倉にてもミサ葬儀を行った。

●私達は、祈りの沁みついた宮津の聖堂でミサをささげ、ご聖体を拝領し、118年の歴史の中で紡がれた信仰の深さを学びました。
そしてイエス・キリストへの深い信仰に導かれたガラシャの壮絶な帰天は、当時に有っても、現代の私達にとっても、聖性の有り方、信仰の証を、互いの心に培った神に感謝の巡礼でした。

 

細川ガラシャ 玉子の略年表 年齢は数え年

1563年1歳 玉は父明智光秀の三女として越前で誕生。母は煕子(妻木範煕むぎのりひろ)の娘
1571年9歳 明智光秀は織田信長の直臣となり坂本城に移る。
1578年16歳 長岡勝龍寺城の城主 細川藤孝の長子・忠興と結婚。
1579年17歳 長女、お長を出産。
1580年18歳

長男、忠隆を出産。信長は、細川父子に丹後、光秀に丹波を与える。
8月2日 細川藤孝・忠興は勝龍寺城から、丹後の宮津八幡山城に入城。信長の許可を経て新たに宮津の浜手に平城を築く。今の宮津城下の礎となる。

1582年20歳 6月2日 本能寺の変。9日 光秀、宮津城に援軍を頼むが細川家これを拒否、父、細川藤孝は弔意を示し剃髪して幽斎と号し、家督を忠興に譲る。
6月13日 光秀、山崎の合戦で秀吉に敗北近江坂本城へ逃れる途中小栗栖で殺される。
6月15日 明智秀満・一族郎党 坂本城を焼き自刃。
玉は味土野に隠棲。*宮津から船で日置〜世屋〜味土野に辿ったと思われる。
*身を隠す 「里は吉野の奥ながら花なき峰に呼子鳥なく」 (玉の短歌)
*細川幽斎、舞鶴に田辺城を築く。
1584年22歳 二年間の隠棲生活を送った玉は秀吉の計らいにより宮津に戻り、その後大阪玉造に新造された細川屋敷に移り住む。
二男 興秋を出産・洗礼名ジョアン。
1586年24歳 三男忠利 を宮津に帰り出産。
1587年25歳 4月 忠興等は、秀吉の命により島津義久討伐の為九州に行く。
忠興不在の時玉は、イエズス会セスベデス神父のはからいで清原マリアから
洗礼を受ける。セスベデス神父から洗礼名ガラシャ(恩寵・神の恵み)を授かる。
1588年26歳 宮津に帰り二女 多羅 を出産 洗礼名タリーヨ。
1595年33歳 7月 関白豊臣秀次 切腹。秀次に連座して、お長の夫・前野長重 切腹。
1597年35歳 お長 受洗。
1598年36歳 三女 まんを出産。
1600年38歳 6月27日 忠興、家康に従い 上杉景勝 討伐に向かう。
★7月17日 大阪屋敷の玉、石田三成より人質として大阪城入りを強要されるがこれを拒否。家老小笠原秀清の介錯で帰天 小笠原秀清等、屋敷に火を点け共に自刃。 
*ガラシャ死の数時間後、オルガンチノ神父は屋敷の焼け跡からガラシャの骨を拾い堺のキリシタン墓地に葬ったという。
辞世の歌 「散りぬべき時知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ」
7月20日 幽斎、田辺城に籠城。9月福地山城主小野木氏に攻められ開城、亀山城へ移る。
9月15日 忠興 関ヶ原の合戦に参陣。
9月20日 忠興 亀山城で幽斎と対面。後に小野木氏を攻め、 小野木氏切腹。
*10月 忠興は、叔母や玉の侍女と京都建仁寺で対面、玉の最後を聴く。
*11月 忠興は、家康より豊前39万9千石を与えられ 宮津を去る。
●1601年8月 忠興はオルガンチノ神父に依頼し『ガラシャ玉』の教会葬儀を大阪にて行った。のち小倉にても葬儀を行った。

会長 梶山聰子