広島地区女性連合会 美濃・尾張巡礼             2012年10月3日(水)〜4日(木)

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広島地区女性連合会 美濃・尾張巡礼 2012年10月3日(水)4日(木)

 2012年10月11日、教皇ヴネディクト16世に由って信仰年が開始されました。
 前田司教様、斉藤神父様と私達は、信仰の再発見の心の糧として、キリシタン禁制(1587〜1873)の時代、熾烈な迫害と検挙の中で3.000余人が殉教しキリストを証しした美濃・尾張に巡礼、キリシタンの処刑地と、潜伏キリシタンの信仰の歴史を辿りました。
 10月3日の主税町教会、4日の一宮教会に於いて前田万葉司教様司式のミサ聖祭に与り、聖体拝領の秘跡に活かされて霊性を培い、イエス様のメッセージを心に留め、カテドラル布池教会で御聖体を訪問致しました。美濃・尾張の巡礼に由って私達の信仰共同体が、信仰への奉仕の絆を強め、神様への証しの路の地道な歩みとなりますように祈りました。
 碧く澄み透った爽やかな秋空の下、キリストへの証に生きた殉教者の強く純粋な精神性が心に沁みた神に感謝の巡礼て゛した。                               会長梶山聰子

※美濃・尾張の巡礼個所・布教と迫害

1.●浦上キリシタン1870年1月(明治3年)明治政府は3000余人の浦上キリシタンを20藩に流罪。
375名は名古屋藩の広小路牢獄と西別院内の西掛所に流配された。そのうち85人死亡、2名横浜に脱走、生児17人。明治6年政府は世界の批難を浴び禁教令を撤去、4月浦上に帰還。
●栄国寺1631年〜1667年幕府はキリシタン途絶のため迫害を激化、美濃・尾張のキリシタンを検挙、此の地一帯の千本松原で多くの信徒が処刑されキリストを証し殉教した。

2.●布教と●禁教・迫害の動向
(1)美濃1560年(永禄3年)小池備後の守と山田庄左衛門が京都でイルマン・ロレンソと問答して受洗し、教理問答・戒律・洗礼式・葬礼などを記帳して美濃に帰ったことからと云われる。
(2)1569年織田信長はルイス・フロイスに謁見、京都での布教を許可、安土で用地の分与等援助した。
(3)●1579年織田信長の子信忠は、宣教師オルガンチノに美濃・尾張での布教の免状を与えキリシタン信仰は急速に拡大して行った。
(4)1582年(天正10年)この頃迄に岐阜地方で400人余の受洗者が居り身分の高い有力者であった。
「宣教師ガスパルコェリヨがローマに宛てた書簡によると1549(サビエル布教)〜1582年の33年間に日本国内のキリシタンは15万人、教会堂大小合わせ200に広まっていた」{天正10年6月信長死去}
(5)●1587年(天正15年)6月19日●秀吉キリシタン禁教を発令
(6)●1595年織田信秀オルガンチノより受洗。岐阜に教会堂、病院、孤児院を建て維持費を給す。
(7)●1596年12月秀吉は、京都でキリシタン捕縛1597年2月5日長崎西坂にて26人磔刑殉教●列福1627年、列聖1862年。列聖150周年・2012年6月8日
(8)●1600年関ヶ原直前に宣教師達が京都より美濃・尾張を訪問。その後も布教・受洗が続いた。
(9)●1606年*本巣郡十七条の城主、稲葉十兵衛政貞が家臣50余名と受洗。*大垣城主,石川康通受洗。
(10)●1611年*神父は京都より関東への途上美濃、尾張、伊勢、三河に宣教、多数の人が受洗した。
(11)●1614年宣教師追放令徳川秀忠は禁教を強化幕藩体制を固めてゆく*{1616年家康は75才で死去}
●1619年(元和5年)秀忠の時、京都四条河原で52名を火刑。元和の大殉教(5名は美濃出身)
(12)●迫害と弾圧の合間を縫ってディエゴ結城、ベント・フェルナンデス等日本人、外国人神父の布教活動は途絶えることなく続けられ尾張・美濃を歴訪し信者を励ました。
●1622年長崎=55人火刑。元和の大殉教●1623年江戸札の辻=50人火刑。元和の大殉教

●一宮市(1)なぐさめ塚尾張・美濃3.000人の殉教者の供養碑(一本松塚より浅野に移転)
●(2)1631年(寛永8年)尾張藩の大規模検挙。一本松塚火炙り処刑場跡ポール平右衛門・其の子シモンコスモ久三郎・医師コスモ道閑・レオン庄五郎の4名。
(3)火炙り供養碑・水掛け地蔵を供養のため一本松塚の辺(ほとり)に安置した。江戸末期常光寺に移された。
(4)八剣社「開祖空圓上人」の石碑が境内にある。石碑の裏面にセンテンセ=判決宣告。台石の後部に横書きでクロタセウ=磔刑・火炙りと4人の殉教の証を彫り表向き空圓講と称して集会熱烈な信仰でキリストに結ばれ祈った。禁教に対する悲憤を刻印した信仰記録遺物である。
●扶桑町1661〜1667処刑場跡=恵心庵・長泉塚・乱法山・小淵地蔵畑・正覚寺・折橋薬師堂・専修寺・福塚慰霊碑=白雲寺・覚王寺・薬師寺石割不動
●犬山市(五郎丸村)万願寺跡キリシタン伝道所で在ったため廃寺。
1661〜1674年の13年間124名逮捕の内100名処刑。村の全人口205名。
●1649年(慶安2年)可児郡塩村でキリシタン信徒多数検挙。可児町史通史編・史料編273
●1661年3月1日塩村の領主林権左衛門の通報により尾張藩捕縛隊が夜中に塩村に出動3月2日未明捕縛し名古屋で処刑。
●1661〜1667年美濃一帯の信徒を震撼とさせる検挙が可児郡西南部一帯の村々で幾度も行われた。
●可児市塩・処刑場跡=甘露寺・向田河原・塩人枡・塩新田・五反田おかたば・坂戸柿の木田・上野さるまや検挙の役人が調書作成に使った硯石が甘露寺境内に残っている。キリシタン遺物さすり地蔵も保管。※三百数十年を経過した現在も、塩村周辺で当時の検挙の様子、生々しい悲惨な弾圧を今なお語り伝えている。【6才以上の信徒が可児川畔の雑木林の中に引き連れられ、棒に両手首・足首を縛られ役人が竹で叩き足で蹴るという苛酷な取り調べを受け、ある者は火炙りある者は打ち首となり死んでいった(向田河原)。塩村は何代にも渡り差別社会の中で生きた】
●1697年(元禄10年)塩村百姓35・6人を笠松の藤掛で処刑
●御嵩町残された信仰の証@1981年(昭和56年)3月12日謡坂村七御前にて道路工事中、刻印で十字架のイエスを表現したものと解る3点の石碑を五輪塔の下約30pの土中から発見した。これをきっかけに調査が始まり10数点を発見、御嵩町で信仰を護り秘かに祈っていた潜伏キリシタンが居たことを証明した。A4月22日小原村大東場江戸時代からの共同井戸脇の苔蒸した碑に十字架と2本の釘の彫刻を発見。5日後の27日井戸の石垣の改修工事をした所黒色の楕円形の十字架碑と台座が嵌め込まれ一見、分からぬよう蓋石が嵌めてあった。B12月27日氏神白山神社拝殿の奥に十字架碑が納められていた。C謡坂村幸福寺・笠塔婆の南無阿弥絶佛(ぜつぶつ)1718年10月建立同行拾二人
(5)西洞村山中の小さな墓地に卍のみを彫った墓碑(6)昭和63年木村家屋敷跡から60pの石柱の小口面に幅広の十字架(7)1945年(昭和20年)松茸狩の林で倒れた雷神碑を建て直す時、基壇の中にマリア観音を発見した。(8)明治の中頃、住宅建て替えの際、家の中からマリア観音を発見。
(9)一坪の小原観音堂厨子の銘文に天主之拝寛文4年11月吉日木村六左衛門。
※1987年(昭和62年)3月観光協会、地元有志によりマリア像を建立●マリアの里が造られた。
岐阜県史通史歴史資料・可児町史通史・御嵩町史過史編(上)