2011年2月20日(日)平和アピール1981記念行事 広島地区

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「平和アピール」を読んで

伊藤光子さん(福山教会)

 前教皇ヨハネ・パウロ2世の平和アピールがあったのが、1981年。私は、ちょうどその年に生まれました。その年から30年目の今年、ここに機会を頂き、今、この場に立っています。私は、福山のあるカトリック幼稚園で働いています。今日は、こんな機会を頂いたのも神さまからのプレゼントなのだろうと思って、普段接している子どもたちのことも交えながら、私自身が感じていることをお話したいと思います。
私は、今回、平和アピールを改めて読み直してみました。今までによく耳にしたことのある箇所もありましたが、それ以外の部分もたくさんあり、こんなに長かったのだと初めて知りました。そして、現在、多くの国々が、核兵器を持つことで勢力を均衡に保とうとしています。また、アメリカがイラクを明確な根拠なく攻撃したように、国際紛争の手段を戦争に求める国が後を絶ちません。この平和アピールは、30年前のアピールだとは思えないくらい、まさに、神さまが今の世界に呼びかけられているものではないでしょうか。
その中で、一番、私の心に留まった言葉は、「過去を振り返ることは、将来に対する責任をになうことです」という言葉です。この言葉は、平和アピールの中に何回も出てきます。これからの将来をになっていく私たち若い世代にとって、この言葉はずっしりと胸に沈んできます。
私は、過去を振り返ること、つまり「過去のことを知ること」がまず平和への第一歩だと考えています。マザーテレサは、愛の反対は無関心であるといいました。私たちの生活を見てみると、過去のことや、世界で今どんなことが起こっているかを知らなくても、毎日、不自由なしに生きていけます。また、若い人たちの中には、広島に原爆が投下されたのが、何月何日かを知らない人もたくさんいるというニュースを聞いて、とても驚きました。それほどまでに、今の若い世代は、過去のことや世界のことに対して、無関心な人が多いと言えます。そして、私もその中の一人だったような気がします。平和って何だろうとか、過去にどんなことがあったのだろうとかいうことは、ほとんど考えたことがありませんでした。
しかし、その思いが変わってきたのは、8月5日、6日の広島の平和行事に参加するようになってからです。私が、毎年8月6日に広島に来ようと思う理由は、自分の足で実際に原爆が落とされたその地を踏み、そして、そこで実際に被爆された方の話を聞くことができるからです。しかし、現在、被爆者の方は高齢化し、年々減ってきています。私たちが直接、被爆証言を聞くことができることは、本当に貴重なことだと思います。ある女性の被爆者は、「焼け野原になった街に、死体が山のように積み上げられ、いろんなところから死体を焼く煙が立ち上っていた」ということを話して下さいました。私は、戦争というものは、人間の命の価値をいっきに虫けらのように変えてしまう恐ろしいものだと感じました。そして、自分の体験を途中で涙ぐみながらも、必死で伝えようとするその女性の姿に、これからの平和な未来のために、自分は原爆の恐ろしさを伝える役目がある、という強い思いを感じました。この姿を見ると、決して戦争はしてはならないという確固たる思いが私の心の中にわきあがってきました。そして、そのことをさらに次の世代に伝えるのは、私たちの役目だと思ったのでした。過去を知ること、この大切さを教えてくれたのが、被爆証言をして下さる方々の姿でした。
また、去年、私は、原民喜の「夏の花」という作品を読む機会がありました。夏の花には、原民喜が実際に体験した、原爆投下直後の広島の様子が描かれています。その中に、原民喜が、なんとか逃げのびて避難所にたどりついた場面で、「このことを書きのこさねばならない、と、私は心に呟いた。」という一文がありました。私は、この言葉に「原爆のことを絶対に次の世代に伝えないといけない、この惨劇を二度と繰り返してはいけない」という原民喜の強い使命感を感じました。原爆に関する作品も、私たちに過去のことを教えてくれます。それを書き残した作者の思いをしっかりと受け止めて、絶対に戦争はしてはいけないということを、次の世代に伝えていきたいです。
しかし、私は、「過去にひどいことをされた」という一方向から知るのでは足りないと思います。「もっと世界的な視野で知る」ということが必要ではないでしょうか。これは、ある保育の場面から気づかされたことでした。私は、夏のある日、5歳の子どもだけ集めて、原爆のことや、私たちの町福山にも爆弾がたくさん落とされたことを話しました。平和について子どもたちに少しでも伝えたいと思ったからです。しかし、その後、アメリカと日本人の両親をもつある女の子が、家に帰って、とても悲しそうな顔をして、「お母さん、アメリカは日本に悪いことをしたの?」と話したのでした。それを聞いて、私は、はっとしました。子どもたちの中には、フィリピンと日本の血が流れている子どももいます。そういうことを全く考えずに、日本は過去にひどいことをされたのだという一面からしか考えてなかった自分が恥ずかしくなりました。日本も朝鮮や中国、東南アジアで併合や侵略をし、多くの人がその犠牲になりました。私は、これからは日本がされたことだけではなく、日本がしてしまったことや、どうして世界が戦争に向かって走り出したのかをもっと知りたいと思います。このように過去を知ることは、平和な未来を築くために、まず必要なことだと思います。
私は、毎日子どもたちとすごしていますが、聖書の中で「幼子を私のもとに来させなさい」とイエスさまが言われたように、子どもたちの方から、平和を創りだしていく心について教えてもらうことがよくあります。私たちの幼稚園では、毎年、秋に子どもバザーをして、子どもたちが作った作品を売って、集まったお金を世界の困っているお友達のところに送るということをしています。今年はフィリピンのマラヤという所に送りました。「そこではね、ご飯が食べられない子どもたちがね、お母さんと一緒に来て、一日一回だけご飯が食べられるんよ」と子どもたちに帰りの集まりで話をすると、子どもたちはしーんとして話を聞いていました。同じくらいの歳の子どもがそういう状況なのだということを真剣に受け止めているようでした。そして、その後、いつものようにお祈りをしようとすると、ある4歳の女の子が「先生、今日は、私がお祈りしたい」と言って前に出てきました。そして、手を合わせ、目を閉じて「フィリピンの子どもたちが、ご飯が食べられますように、アーメン」とお祈りしました。まわりの子どもも一緒にその言葉の後に続いてみんなでお祈りしました。自分の国とは違う国のお友達のためにも、すぐ心を合わせてお祈りをするこの子どもたちの姿をみて、どこの国の人であろうと神さまが創って下さった大切な一人なのだ、ということを教わりました。
また、同じ日に、マフラーを指で編んで作っていた5歳の女の子二人がいました。私がフィリピンの話をした後に、「そのマフラー自分の家に持って帰って使ってもいいし、子どもバザーの品物にしてもいいんよ。どっちにする?」ときくと、その女の子たちは、何日も何日もかかって作っていたから自分で使うのを楽しみにしていたのでしょう、しばらく「う・・ん」と悩んだ後、ひとりが「フィリピンのおともだちのために、子どもバザーにだす」と言いました。そして、もう一人も「私もそうする!」と言いました。私は、自分のためにがんばって作っていたものを、違う国のお友達のために差し出すことのできるこの子どもたちの心に驚き、自分の心を分け与えることが平和をつくりだしていくのだということを子どもたちから学びました。
今回、平和アピールを読み直し、私たち若い世代は、本当に重い責任を負っているとあらためて感じました。核兵器の問題、国際的な緊張や紛争はまだまだ続いています。これから先、どんな未来になっていくは、私たち若い世代にかかっています。まず、私ができることは、もっと世界的な視野をもって過去を知ることです。そして、そこで苦しみながら亡くなっていったたくさんの命の重みを感じながら、戦争は絶対にしてはいけないと次の世代に伝えていくことです。一方で、自分のすぐ身近なところから平和をつくっていけるように、お互いを尊重しあい、まわりの人のために自分をつかいたいです。平和アピールの中に「愛と自己を分かち与えあうことが、はるかかなたの理想などではなくて、終わりなき平和、すなわち、神の平和に通じる道であるということに、気づきましょう」という言葉があります。まさにこれは、子どもたちが教えてくれたメッセージでした。自分の身近な所から、このような生き方ができたら、それは神さまが望む平和に通じると思います。
ヨハネ・パウロ二世の思い、被爆された方々の思いをしっかりと受け止めて、神さまが望まれる世界の平和、心の平和を実現することができますように、神さま、私たちに、物事を正しく判断する力、行動する勇気をお与えください。
ありがとうございました。


「平和アピール」を生きる

末廣浩一郎さん(幟町教会)

1.新人として

 私は2009年に洗礼を受けました。つまり、洗礼を受けてからまだ2年程度しかたっていません。今日は、このようないわば新しい信者の思っていることをお話させていただきたいと思います。

 新しい信者として今感じることは、おそらく入門講座の頃に教えられたことや思ったことが基礎となっているように思います。そこで、少しその頃の話から触れていきたいと思います。

 私が洗礼を受けるきっかけとなったのは、幼児洗礼を受けていた妻の「神様はあなたのこともちゃんと考えていて下さってるよ」という一言でした。その後、幟町教会の入門講座に問い合わせてみたら、「ちょうど新しい講座が始まったばかりです」とのこと。「これはきっと神様が講座に入りなさいということなのだろう」と思い、そのまま入門講座に通うこととしました。

 このときの入門講座で後藤神父様がおっしゃったことで、今でも忘れられない、おそらくこれからもずっと忘れないであろうと思う言葉がいくつかあります。

 まず、「私たちは目に見えない方の目に見えない姿を見て、目に見えない方の耳に聞こえない声を聞くのです。」という言葉。
神様を信じるというのはどういうことなのか、また信仰が深い者の心のあり方や、信徒としての心の持ち方などを、強く心に刻み付けることとなった言葉でした。

 それから、「神様はすべての上にあり、全てのものを通して働き、全てのものの中にある」という言葉。
「教会という建物の中にのみ神様がいるのではない。私たち一人ひとりを通して神様ははたらき、そして私たち一人ひとりの中に神様はいらっしゃる。だから、私たち一人ひとりが教会なのです。」という神父様の教えからは、神様の豊かな恵みとみはたらきの存在を感じることとなりました。

 そしてもう一つは。「神様はいつも私たちの側にいらっしゃる。私たちと共にいらっしゃる。」という言葉。

 神様の臨在を示すこの言葉と、先に挙げた二つの言葉。後藤神父様のこの3つの言葉で、私は洗礼をうけることを決心したと言っても過言ではありません。

 そのような、信仰の深まりにおいても、信仰を生きることにおいてもまだまだ未熟な私が、1981年の「平和アピール」を読んでみました。いや、正確に言えば、30年前に教皇ヨハネ・パウロ2世が広島に来られたときには、この平和アピールを一度読んだ記憶があります。

 実は、私はこの後公演が予定されている舟入高校の出身で、しかも演劇部に所属していました。高校の頃にはやはり原爆を題材とした演目が主でしたから、教皇が広島に来られて一体どのようなことをおっしゃるのかということには興味を持っていたのです。しかし、その時のアピールは、私にはそれなりに感慨をもたらしたものの、いつまでも心に残るというものではありませんでした。

2.平和アピールを読む

 今回、改めて「平和アピール」を読んでみました。
前回のような「独身で未婚で未信者、しかも若者」という状態ではなく、結婚して、子供を持つ父親であり、またカトリックの洗礼を受けた者としての立場からこの平和アピールを改めて読んだとき、そこには30年前とは異なる意味が見出され、新たな感動を覚えました。

 この「平和アピール」には特徴的な一つのフレーズがあります。この中で4回も繰り返されるフレーズです。

 「過去を振り返ることは、将来に対する責任をになうことです。」

 日本語では印象が強くないように感じられたこの言葉ですが、元の英文を読むと印象が大きく異なります。

"To remember the past is to commit oneself to the future."

 「未来にcommit(コミット)する」と言っています。
実はこの「commit」という言葉、私は昔から好きな単語の一つで、だからこそこのフレーズが余計に心に残るのかもしれません。

"commit oneself to〜" ですから、「(誰かが)〜することを約束(あるいは確約)する、決意する、心に誓う、しようとする姿勢をはっきりと見せる、態度を表明する」と いうような意味があります。つまり、「コミット」という単語は、人の非常に強い決意や意志が込められている言葉だと思うのです。

 例えば、「コミットする」ということは、私にとっては子供を持つということもその一つなのです。

アメリカの今の大統領、バラク・オバマの昔の演説の中に、次のような言葉が出てきます。

「子供を作るという能力が、あなたを男にしているのではない。子供を育てるという決心が、あなたを男にするのだ。」

 正直、男である私は、この言葉には痺れました。
子供を持つということ、人の親となるということの重さと、子供の教育と将来について、責任を持つということの重さ。そして、それを担うという自覚と、大きな決心。そこには人の強い決意があり、強い意志があります。

 まさに「コミットする」のです。

 子供を持とうとする時であれ、あるいは子供が生まれた後であれ、子供を持つということのこのような責任とこれに対する気持ちは、親となった者であれば誰でも感じたはずです。
また、子供を持ったことがない方であっても、様々な問題に責任を持つ決意をするという経験は、同じようにあったものと思います。

 同じようにここにいる私たちがコミットするべきこと、それがこの「平和を実現していく」ということだと思うのです。

 「知っている者の責任」あるいは「知ってしまった者の責任」という言葉があります。「一度知ってしまった者は、そのことについて知らないふりはできない」、という意味です。
ここは広島です。世界で最初に原爆が落とされた町が、私たちの広島教区にあるのです。私たちの身近には、現に多くの原爆の痕跡が存在します。被爆者の方々はここ広島の、今も続く現実です。また、友人が被爆2世や3世であることも珍しくありませんし、もしかしたら皆さんの中にもいらっしゃるかもしれません。
そのような広島教区にいる私たちなのです。「平和を実現する」ということを、広島教区の私たちが言わなくて誰が言うというのでしょう。私たちには「知っているものの責任」があるのです。
子供を持った親が子どもに責任を持つように、広島教区の私たちは平和の実現に責任を持つのです。平和を実現するということに私たちがコミットしなくて、一体誰がするというのでしょうか。

3.平和アピールを生きる

 でも一言で「平和を実現する」と言っても、それは誰が実現できるのか。
それをするのは政府であって自分ではないのでしょうか?
もしかしたら、「一人の個人などで一体何ができるというのか、言うだけ無駄だ」という意見もあるかもしれません。

 しかし、平和アピールはこのように言っています。

 「この都市の人々が受けた苦しみを振り返ることは、わたしたちの人間に対する信頼を再び新たにすること、つまりそれは、人間には正しいことを選択する自由があるということ、人間には災難を新たな出発点に変える決意を抱くことができるということへの信頼を再び新たにすることです。
すべての戦争は人間が引き起こす災害ではありますが、その災害に直面して、
「戦争を遂行することは人間にとって不可避なことでもなければ、必然的なことでもない」ということを、繰り返し繰り返し人々に主張しつづけなければなりません。」

 どのような主張であれ、それは個から始まるのです。

 どのように人に言われても、どのように人から思われたとしても、自分が正しいと思う事を言い続けることが、正しいと思うことに対する意思を持ち続けることが、本当に大切なのだと思います。そして、そのような思いと行動こそが、やがて他人を動かし、周りに広がっていく力の源泉となり得るのだと思うのです。

 「平和アピール」の言葉を受けて、私たちが今、何をするのか。何をし続けるのか。今することが次の世界につながり、次の世代の生きる世界を創っていくのです。私は子供を育てる親として、子どもに平和な世界を与えたい。そのためには、この「平和アピール」が私たちに求めている思想と行動を、親である私たち自身が実践し続けること、そして私たちの子どもに伝えていくということが必要なのです。
社会の最小単位でもある家庭の中で、親から子供へ信仰を承継させていく事と同様に、平和を実現するという考えを承継させていくことが必要なのです。

 そして、このような「言い続けること、意思を持ち続けることが大切」というのは、迷い、つまづき、過ちを犯しながらも「その教えを信じ続け、それを実践し続けようとする」という、キリストの弟子として生きようとする私のあり方とも同じなのではないか、とも思うのです。

 この「平和アピール」の最後にある、さまざまな人に対する訴えは、本当に感動を覚えます。ぜひもう一度、このアピールを読み返されることをみなさんにお勧めします。
至らないながらも、私は個人として、このアピールに答え続けたいと思います。そして、平和を実現するということの意味を、次の世代に承継させていきたいと思っています。

 すべては神のみはたらきの中において。


「今こそ平和アピール」

山口裕子さん(幟町教会)

 30年前、ローマから教皇さまが日本に来られる、と、それだけでも驚きだったのに東京の他に選ばれたのは何と、広島と長崎でした。
広島では、信徒だけでなく、市民のほとんど、そして広島市、国連大学、各宗教関係者、学者、作家、平和活動関係、メディア、その他各界あげての歓迎ムードでした。
幟町教会では、教皇さまが いらっしゃるとのことで、祈りを捧げられる世界平和記念聖堂と、昼食と休憩を二階でとられるその時の司教館(旧ラサール会館)を皆で心をこめて連日準備作業に当たりました。広島空港にご到着のときお迎えする 児童代表の一人に私の末息子が選ばれて、教皇さまから親しく祝福をいただくわが子をまのあたりにすることができました。肝心の息子は被爆二世ということでマスコミ攻勢に困惑していましたが。一人の佛教徒の被爆女性が法王さまに捧げたいと心を込めて銀紙の千羽鶴をレイ(首飾り)に仕上げて教会に届けられたので、空港で教皇さまの胸にかけられました。
雪のちらつく平和公園、教皇ヨハネ・パウロUは、原爆慰霊碑の前に額づいて長い祈りを捧げられました。この時、供養塔に思いをはせておられたのでは、と思いました。
マイクから響いた第一声は「戦争は人間のしわざです」「戦争は死です」と日本語で力強く語りはじめられたのでした。9ヶ国語を駆使して平和への熱い思いを世界に向けて発信されました。
その場に集まった市民約2万5千人のみならず、全ての人の心にひとことひとことが浸透する感動のメッセージでした。アピールは教会外でも多くの人が繰り返し味わい、勇気づけられました。
30年前の世界は、東西冷戦による核軍拡競争のさ中でしたから、教皇さまは、どれほどお心を痛めておられたことかと思います。
広島と長崎を巡礼し、世界で最初の核被爆地となった広島から、核戦争への警告と、平和への切なる祈りをアピールされたのでした。
教皇さまの励ましに応えて、日本のカトリック教会では、その年から8月6日〜15日を平和旬間として、平和へのとりくみを始めました。
早速、盛岡地区での平和行事に、被爆者として話すよう招かれたのですが、それまで語ることを拒み続けていたので、しどろもどろの話しで、今も、申し訳なかったと思っています。
教皇来広に先立つ1975年に広島では平和を願う会が発足し、平和をつくるための祈り、学習、活動を三本柱に集っていました。その活動の初期、日本では全く知らされていなかったことですが、日本の原子力発電の核廃棄物をドラム缶に詰めて南太平洋に投棄する計画に対し、島々で反対運動が起こっていることを、現地で働くメルセス会シスター清水から知らされました。私たちは”核廃棄物海洋投棄反対署名”の運動をはじめました。白柳大司教さまも動いて下さり、全国に拡がって45,000人以上の署名を政府に届けました。核の海洋投棄は中止になり、原発の廃棄物は処理方法がないまま今も溜り続けています。
教皇ヨハネ・パウロUは、日本訪問を終えて帰られたのち、広島の信徒は平和のために働くようにと、特にメッセージを寄せられたので、平和を願う会では、その年の8月から、平和公園供養塔前で祈り、世界平和記念聖堂まで行進するという活動をはじめました。今も続く8・5平和行進です。
出版活動の一つに、二度の被爆証言集の発刊があります。きっかけは、祈祷の使徒会会長であるチースリク神父さまが、教皇ヨハネ・パウロUを、東京・広島・長崎と追って(多分「聖心の使徒」の記事のためと思います)そのあと広島に寄られたときのことです。チースリク神父さまとは、戦後、公教要理、受洗以来ずっとの師なのに、幟町教会で被爆されたことをはじめて知って驚きました。詳しく物語って下さり、感動しました。「神父様、それを書いて下さいませんか。」と言ったら「『聖心の使徒』に書いていますよ。」とのこと。帰られてから「破壊の日」のコピーを送って下さいました。またそのころ、平和を願う会の西尾先生が恩師であるジーメス神父さまの手記のことを話されました。被爆直後の9月にドイツのイエズス会会友に書かれ、倫理的考察も話題となった貴重なものだとのことでした。また、長束修練院で多くの被爆者の治療に当たられたアルぺ神父さまの手記も入手できたので併せて出版することを計画しました。
それなら、幟町教会で被爆され、世界平和記念聖堂建設の恩人であるラサール神父さまのものがなくてはならないということで、私が大役をお受けして、上智大学SJハウスに、録音機を持ってラサール神父様をお訪ねしました。ドイツに行かれる前日の貴重な時間を割いて、被爆時の状況、その後の聖堂建設までの経緯を話してくださいました。
1983年に『破壊の日』として出版し、外国人宣教師の体験した被爆記録は、評価をうけました。
1988年に平和を願う会から正義と平和広島協議会となりました。その最初の大きなとりくみが『戦争は人間のしわざです』の出版です。
被爆者が高齢化していく中で、今、記録しておかなくてはと、教皇来広10周年を記念しての、聖職者と信徒の被爆とその後の体験、併せて、世界平和記念聖堂建設の記録を収めたものです。
教皇来広の年に、栗原貞子さんがラジオで「もし、占領軍による言論統制がなくて、被爆による惨状を公に語ることができていたら、核の軍拡競争は、ここまでにはならなかっただろう」と語っておられたのが印象に残っています。
1952年までは、プレスコードにより、被爆を語ることが許されなかったからです。日本で原水爆反対の声をあげたのは1954年に第五福竜丸のアメリカの水爆実験による被曝がきっかけでした。翌55年広島で第1回原水爆禁止世界大会が開かれ、それから大きなうねりとなっていきました。
被爆50周年の日、若い新聞記者のインタビューをうけました。その時、私は、12歳で被爆し奇しくも助かったけれども、両親はじめ家族5人の命が奪われ、その後は多くの原爆孤児と同様、敗戦後の荒波にもまれた。けれど、今、最も訴えたいことは、私たちが豊かに享受している生活の陰で、原子力産業によって原爆と同じ核による被曝者がつくられ続けている。また子々孫々に負の遺産を担わせている。原発の推進は、中止すべきだと力をこめて話しました。
彼は熱心に反応し、「必ず書かせていただきます」と言ったのですが、翌日の紙面には私の名前を記した上、「悲惨な体験は忘れられない」という意味のコメントだけ。メディアは報じないものがある、との思いは、今も続いています。
今、温暖化対策、CO2削減ということで原発が推進されていますが、では原子力発電とはどういうものかを 日本カトリック正義と平和協議会で、たいへんわかりやすく説明したリーフレットを作ってくださいました。
1982年以来、中国電力は山口県上関町に2基の大型原発の建設を計画しています。瀬戸内海国立公園、それも宝の浦として、日本だけでなく世界の学者、知識人が注目している上関町長島の田ノ浦を、埋め立てようとしています。岩国基地にも近く、地震の怖れがある断層も確認されている所です。その田ノ浦の海を漁場とする祝島の人たちは、漁業補償を受けとることなく、里山百選に入っている自然と共に生きてきた昔ながらの平和な生活を未来につなげようと、既に29年の長きにわたって原発計画に反対し続けています。「長島の生物多様性は、世界遺産に匹敵する」と学会から絶賛されている場所です。
上関原発計画を主題に昨年「祝(ほうり)の島」「ミツバチの羽音と地球の回転」、二本のすてきな映画がつくられました。が、公の報道では、推進する側の宣伝だけを日常茶飯事のように目にし耳にします。末代まで残されるリスクは伝えられないのです。政策、メディア、裁判、大企業の力、それらの不正義に対して、あげ続ける声と活動の輪が、今、全国的に、若い人たちにも広まっています。黙っていることは認めることにつながるからです。
教皇ヨハネ・パウロUの平和アピールの終わりのところで、
「神よ、私の声をきいて下さい。
私は、主がすべての人間の心の中に、平和を創るための知恵と正義の力と、仲間同志であることの喜びを注いで下さるよう願います。」
との祈りを しっかりと受けとめ、私に残された命を生きたいとねがっています。