2011年2月11日(金)2・11「建国記念の日」を問う広島集会

HOME > 活動報告 >2・11「建国記念の日」を問う広島集会


奥田知志(おくだ ともし)さん

 2月11日(金)、今年も広島カトリック会館多目的ホールで『「建国記念の日」を問う広島集会』が開かれました。今年は日本バブテスト連盟東八幡キリスト教会の牧師で、NPO法人北九州ホームレス支援機構理事長として、ホームレス支援活動で活躍されている奥田知志(おくだ ともし)さんを招き、『「栄光」の神社 靖国 〜十字架の神学からの私論的批判』と題して講演していただきました。奥田さんはまず現代の若者が置かれている状況について経済的困窮と人間関係の上での困窮の二つの問題を指摘された。とりわけ自分自身が身を寄せる先がないという「孤立という不安」を強く抱いている若者が多いことに注目し、その不安から解放されようとするとき、人間はしばしば自分自身の現実を超えるものに身を寄せることによって自らの欠如感や不安を観念的に解消しようとすると分析され、そこに宗教的意識が作用すると話された。そして現代の多くの若者達が天皇制国家を受容し、右傾化する傾向が強いのは、「孤立という不安」を抱いて閉塞的状況にあることと関係していると分析された。このような現実社会の病理を指摘したうえで、戦争の時代には底辺に生きる人たちを、戦死した後にも靖国神社に「国家のために死んだ英雄」として顕彰することによって同じように心理的転換をはかることによって、戦争に動員してきたと語られた。さらには私たちの教会も、人の死を栄光としてのみとらえがちで、それならば靖国神社と同じことになっていると指摘された。そして、「悲惨の極みである十字架に神がおられることを認識しない者は、自らの十字架の場面で実は神が近くにおられるにも関わらず神に捨てられたと思いこむ」「しかし、この十字架こそが唯一人間が神を認識する場所であり、人間が裁かれ、キリストと共に復活する場所、生きる場所なのだ」というマルチン・ルターの『十字架の神学』から靖国神社の問題性と私たちの教会が陥りやすい問題性を話された。カトリック、プロテスタント、一般市民ら約90名が参加し、学校現場での日の丸・君が代の強制の状況や、靖国神社での憂愁館の展示が日本の過去の戦争を聖戦としていることの問題性について参加者からも報告され、それぞれの立場からの意見を出し合いながら学習を進めることができました。

(文責 カトリック正義と平和広島協議会 神垣 栄)