2007年8月4日(土)〜6日(月)広島教区平和行事

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8月5日 広島平和記念ミサ

高松教区長 溝部 脩 司教

 


 私たちは平和記念聖堂まで平和を願っての行進をしてまいりました。この行進は他のデモ行進と違って祈りと賛美歌で構成されていました。同じように400年前日本の各地で平和の行進が行われていました。しかし、少し違ったところがあるのは、彼らが行き着く先は処刑が待っている行進でした。

 1613年10月7日、高橋主水ハドリアノとその妻ヨハンナ、林田助右衛門レオとその妻マルタ、11歳の息子ヤコブとその姉17歳のマグダレナ、武富勘右衛門とその息子27歳のパウロ。彼らは島原半島の有馬の城下町から歩いて処刑場まで行列した。彼らの周りに人々が集まり、約1.6キロの道のりを一緒に歩いたのでした。歌を歌い、祈りを唱え、処刑場まで歩きました。処刑場は海岸にあり、処刑場に着く前に小さな浅瀬があり、足をぬらして渡っていきました。
 1619年10月6日、京都の牢屋から男子26名、女子26名のキリシタンが引き出されました。52名の内11名は15歳以下の子供でした。彼らは見せしめのために京都市内を引き回されました。牢屋から出て戻り橋を通り、そこから六条河原に向かいました。その間約3時間余りだったでしょうか。昼過ぎに処刑場に着きました。キリシタンたちは晴れ着を着て、賛美の歌を大声で歌っていました。
 1623年12月4日、東京は小伝馬町の牢屋から3つのグループになって50数人が歩きはじめました。第一はデアンジェリス神父のグループであり、彼一人馬に乗っていました。第二はガルベス神父のグループであり、彼も馬に乗っていました。他は歩いてついていきます。第三はヨハネ原主水であり、彼は手足の指を切られていたので、歩くことができず、やはり馬に乗っていました。周りを警史が囲み、むき出しの槍が光を浴びてきらきらと光っていました。江戸の目抜き通り、小伝馬町から室町3丁目、日本橋、京橋、銀座、新橋、浜松町、芝札の辻。現在でも東京の華やかな街の中心です。札の辻は品川宿であり、東海道を下る人々が必ず通るところでした。彼らは聖歌を歌い、神父たちは馬上から彼らを励ました。
 1627年2月28日、パウロ内堀を中心にした16名のキリシタンが長崎の牢屋を出て山道をかごに乗せられて、雲仙の地獄へと向かった。内堀は一週間前息子たちが、目の前で島原の海に沈められたのを見たばかりであった。寒くて長い登坂の道、誰も居ない山の道を聖歌を歌いつつ進んでいく。ある者は辞世の句をつくり、ある者は物思いに耽った。困難を極めた道中の後は硫黄の湯漬けが待っていた。

 私は4つのキリシタンたちの死の行進を紹介しました。私たちも平和行進を歌ったり、祈ったりしてここ平和記念聖堂まで到着しました。私たちの周りの人たちはどんな反応を示したでしょうか? 無関心であったり、知らぬふりをしたり、またアーメンかという反応もあったことでしょう。そして行列に参加している私たちの意識はどんなものだったでしょうか?

  “お上の命令に従わないのだからその死も仕方ない”
  “西洋の宗教にたぶらかされた輩”
  “かわいそうにあんな女、子供までが殺されるなんて”
  “こんなにまでしないといけない宗教なんだろうか”
  “これだから宗教はイヤ”
  “何の抗議もしないで、ただ祈っているなんて不気味だね”

 こんな声が聞かれた400年前の行進でした。現代もそれ程変わっていない気がします。

 しかし、行進する人の意識は全然違っていました。何が違っていたでしょう。そして今私たちの意識とも随分違っていました。

1)決して譲ることができない信念を持っていたことです。
国家であっても、主君であっても、こと自分の信念において譲ることができないと信じていたのです。細川家の家臣であった小笠原玄也は1614年禁教令が出された時に、主君の細川忠興に一通の書簡を提出しました。「不転書物」と呼ばれるものです。その中で、「公方様、忠興様、何と仰せ出され候とも、転びまじく候。後日の為にかくの如くに申し上げ候」と述べている。不退転の決意なのです。  私たちの平和行進は少し観光的な、そしてちょっぴり平和志向の行列だったかもしれません。世界は平和でないといけないという確固たる信念に欠けている面が多々あったかもしれません。400年前の信仰の先達たちは、誰が何といってもこれだけは曲げられないとの信念を持っていたのでした。

2)無抵抗の抵抗を示したことです。
非暴力をキリシタンたちは貫きました。黙々と歩いていきます。決して誰かを悪しざまに罵ったり、暴れたりすることがありませんでした。人々が不気味に思うくらい秩序だった行列でした。1614年以来36年まで22年間、親子11人でひっそりと暮すことが余儀なくされたのが小笠原一家でした。彼らは小倉から熊本へと主君に従って行き、信仰をもったということだけのために人間関係を断たれ、生活の困窮にもあえぐのです。次女のクリは叔父たちに遺書を書き送りました。叔父さんたちは、私たちの母親がこのような状況に追い込んだと避難されますが、そうではありません。私たちが自ら望んだことです。「ついに宗門のこと故、かようの死にはて申し候」と述べている。22年もの長い苦しみは一家の死でもって終わるのです。16通の遺書が残されていますが、恨みがましい一字も見つけることができません。淡々と死を迎える気持ちがあふれています。  私たちの行進は、政治的な抗議を持っていません。しかし、この分何か死をも賭してでもという迫力に欠けるのです。仕方ないことなのでしょうか。苦しみを捧げて行進するという意向が足りないのかもしれません。

3)後生を大事にする。
行進は旅をかたどっています。人生は旅です。変転極まりないこの世の移り変わりを私たちは旅します。私たちの行進は人生の旅を象徴しています。キリシタンたちは自分たちの旅の終わりに神の国、パライソがあると信じていました。小笠原みやは、その遺書の中で、「女の身としてかようの死にいたしたく、ありがたきことことばに述べて申せず、なかなか申せず候。」「しゅうしかえ候へとの御事にて候故、永き後生捨てがたく候申しきり、十一月四日に牢舎仰せつけ候。」  私たちの行進も永遠のいのちへの旅路なのです。「平和とは秩序の中の静けさ」と聖アウグスティヌスは定義しました。バチカン公会議はそれを「作り出す平和における静けさ」と言い換えています。行進は平和を作り上げていくことの意思表示であり、このミサにあづかったその瞬間から私たちの平和への歩み、しっかりと人生を生きる歩みを始めることとなるのです。

 カトリック教会は、今年188名の日本殉教者を福者として公認することを発表しました。それに合わせて、私たちも先達の生き方に学ぶことにしましょう。