萩巡礼ウォーク2015                               2015年11月14日(土)

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萩巡礼ウォーク@ 謎の聖遺物

 心配された雨も何とか持ちこたえて、曇天の中、ミサ後、11時に萩教会を出発しました。今回は4年に1度開かれる殉教地巡礼地ネットワーク(殉巡ネット)全体会議の会場が萩になり、その研修も兼ねていましたので、松江や岡山からの殉巡ネット参加者も含め、40数名の巡礼団になりました。
 切支丹禁令が掲げられていた高札場を通り、浄土宗「報恩寺」を訪問しました。ここはキリシタン聖遺物が発見され、カトリックをはじめとして、注目を集めたお寺です。
お寺の改築に当たって、難波ご住職の母上が、阿弥陀如来像の後ろ、10人ぐらいは入れる空間を掃除していたところ、突然上から落ちてきた金属製のもの、手の平に入るくらいの小さなものですが、明らかにキリスト関係のものと思われます。ロシア正教のものとも言われますが、一刻も早くその解明が待たれます。このお寺の特徴は昔、えらいお坊さんがいて、後ろでキリシタン集会の祈りの時、祈りの声が外に漏れないように、大声でお経を唱えたり、木魚をたたいたりしたという言い伝えが残っている点です。実際、祈りを唱えていたと思われる空間から畑に抜ける道や秘密の通路が発見されています。

写真は報恩寺の本堂。難波ご住職の話に聞き入る皆さん

萩巡礼ウォークA 岩国屋敷・・・萩キリシタン殉教者記念公園

 長崎4番崩れの第1次流配者は114名。そのうち萩は66名であった。萩の沖合にある大島に送られ、そこで神官らによる説諭改宗が行われた。しかし島では何かと不便になり、当時空き家になっていた萩の清水屋敷に収容される。この清水屋敷は豊臣秀吉の水攻めで自決した、備中高松城の城主、清水宗治の末裔清水清太郎の屋敷であった。今は民家が立ち並び、わずかに1本の石碑がその痕跡をとどめている。
 第2次流配者は226人。清水屋敷の向かい側にある通称岩国屋敷(吉川家)という広大な屋敷に収容された。ここもやはり空き家になっており、120間もある長屋に男女別々に留置された。
 浦上信徒の強い信仰心を顕彰するため。明治28年パリミッション会、ビリヨン神父は萩の初代主任司祭になる。尊王攘夷の土地柄の萩ではなかなか墓地が手に入らず、たまたま帰萩していた伊藤博文に浦上信徒流配地のシンボル、岩国屋敷跡にその土地を願い出る。後に師は「伊藤さんは萩教会の恩人です。」よく語ったという。
(写真はキリシタン殉教者公園。殉教者をたたえる祈りの集いが開かれる。)