萩巡礼ウォーク                                     2012年9月22日(土)

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萩巡礼ウォーク

(1)萩教会 → (2)高札場 → (3)報恩寺 → (4)北の総門 → (5)益田家物見矢倉 → (6)萩城内 → (7)キリシタン殉教者記念公園  片道約2kmのコースを、今でも江戸の古地図がそのまま使えるという、静かな城下町を楽しみながらゆっくり歩きました。キリシタン公園で祈りが捧げられ、おいしいお弁当をいただきながら、いろんな教会の方々と交流が深められました。現地解散2時。 萩は殉教だけでなく、歴史のエピソードにも事欠きません。今回は熊谷一族が殉教するきっかけとなった事件を紹介します。

五郎太石事件 福者メルキオル熊谷元直殉教の発端

  1600年関が原の戦いで、西の総大将に祭り上げられた毛利輝元は、戦わずして敗れるという屈辱を味わい、失意のうちに一族郎党を引き連れて萩へ下ります。当時萩は葦の生い茂る三角州に過ぎませんでしたから、城や城下町の建設は並大抵のことではありませんでした。築城の責任者は熊谷元直ですが、直接には娘婿の天野元信(もとのぶ、、洗礼名ペトロ)と益田元祥(もとよし、永代家老)。ある時、益田側の人夫3人が五郎太石(城の石垣の巨石の間を埋める小石)を2100荷盗むという事件が起こりました。荷は重さの単位で、成人男性が肩に担げる重さです。それが2100個ですから半端な量ではありません。個人の仕業というより組織ぐるみの犯行が伺えます。天野は当然返せと益田側に要求。益田側は泥棒の人夫の首をはね、それで解決を図ろうとしますが、天野は「首はいらない。五郎太石を帰せ。」と主張。訴訟になり争いは泥沼化します。
 誰が考えても、非は益田側にあるのですが、輝元はこの事件を利用して一気に熊谷一族を誅殺します。何故か。それはキリシタンを束ねる熊谷元直の勢力が、輝元にとって目障りになっていたからでしょう。
 萩の東北方面に紫福という村落があります。毛利時代、ここを知行地として治めていたのが三輪3兄弟という熱心なキリシタンでした。つまりここはトップから民百姓にいたるまで、ほとんどすべてキリシタンという、ある意味、キリスト教ユートピア村を形成していたと思われます。萩から車で2,30分の近さなので、築城のときには、熊谷を助けるべく多くの村民が、馳せ参じたことでしょう。報恩寺の件でもわかるとおり、元直亡き後もかなり多くのキリシタンが萩にいたものと思われます。キリシタンの特徴は信仰心に基づくその忠誠心と団結力です。裏切りの横行する戦国時代にあって、キリシタンは魅力的に映ったでしょうし、敵にとっては脅威だったでしょう。
 三輪3兄弟の長男、八郎衛門も元直とともに殉教しました。(1605年)紫福はその後キリシタンに関しては何の記録も残っていません。

参考文献 チースリク著「あるキリシタン武将の生涯と殉教 熊谷豊前守元直」

(1)教会内にある熊谷元直像
 イエズス会士 ワジラ神父の制作
(2)高札場
 キリシタン禁制の札が出ていた所。
 最近萩市が復元した。
   

 

(3)-1報恩寺
 昔、潜伏キリシタンを助けた、えらいお坊さんがいたと言い伝えられた浄土宗の寺。ご住職が説明している。

   

 

(3)-2報恩寺
 阿弥陀如来像の後ろから、携帯用の金属製キリスト像が発見され注目を集めた。
 中央にキリスト、左に6人の弟子、右に6人の弟子がいるはずだが、とれて消失している。
 三面鏡の形になっている。

   
(4)北の総門
 萩城の入口 最近修復された。
(5)益田家物見矢倉
 永代家老。熊谷元直が殉教のきっかけとなった事件の相手。
   

 

(6)萩城―五郎太石事件
 築城時、熊谷VS益田を示す城の石垣にその痕跡が刻まれている。
 是より南益田仕口運河にかかる橋を渡って、正面にある石垣。一番下の右から6番目の石。萩城の研究グループから教えていただいた。

   
 
(7)キリシタン殉教者記念公園
 萩に流配された浦上信徒約300人が幽閉されていた岩国屋敷跡(吉川家萩屋敷)
 230mに及ぶ、広い長屋に監禁された。萩教会初代司祭ビリオン神父は明治25年ごろ、たまたま帰萩していた伊藤博文と交渉し、屋敷の一部を手に入れ、熊谷元直や浦上信徒など殉教者を顕彰する碑を建てた。現在はキリシタン殉教者記念公園となり、多くの巡礼者や観光客が訪れている。
 当日巡礼コースの最後の地点。ここで祈りの集いが開かれた。