2011平和行事                                 2011年8月5日(金)6日(土)9日(火)

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2011平和行事

シンポジウム
 
◎テーマ「証 1945 ・2011」
  発題者 ・山口裕子 氏(被爆者・幟町教会信徒)
       ・大塚 愛 氏(ハイロアクション福島原発40年実行委員会)
       ・江藤さおり氏(長崎教区信徒・災害ボランティア)
 ◎分科会 シンポジウムを受けての分かち合い
     @原発との共存はあり得るか
     A3・11 からの問いかけ

 2011年、平和行事が8月5日(金)・6日(土)・9日(火)の3日間、実施されました。
 今年の四旬節に入り、3日目の2011 年3月11日、東日本大震災、そして福島原発大崩壊が起きました。犠牲者の方々に永遠の安息が、また被災者の方々に立ち上がる力と希望が与えられるよう、平和の源である神に祈り求めます。
 原発崩壊に関わるニュースは毎日のように飛び込んできて、わたしたちを不安に陥れます。放射能をまき散らす福島原発崩壊は《起きた》天災ではなく、人間の手によって《引き起こされた》人災というのが正確な表現です。黒い雨(死の灰を含む)が降り注ぎ、たとえようもない惨禍がもたらされた歴史を持つ広島に生きるわたしたち広島教区は、日本は、この度、原発との共存はあり得るかという根本的、倫理的な課題を突き付けられました。わたしたちがどれほど原発に無関心であったか、また物事を識別する力に欠けていたか、胸を打たずにはおれません。原発は原子力の平和利用、〈安心、安全、クリーン〉と、温暖化防止という宣伝文句に惑わされ、識別を怠ってきた事、また原子力(核)とは共存できないことを大きな代償を払って、今回の原発事故を通じて教えられました。
 人間の尊厳を踏みにじる核分裂エネルギーの凶暴さを知ったヒロシマ、ナガサキとのつながりのなかで、〈フクシマ〉をどうとらえていくかは私たちキリスト者にとっての大きな責任であり、世界が注視している事柄です。「広島を心に刻む事は、核戦争を拒否する事です」というメッセージをさらに深める状況に、すなわち、《広島を心に刻む事は、核{戦争・原発}を拒否することです》ということです。「広島を心に刻むことは平和への歩みを起こすことです」のメッセージにもわたしたちは励まされます。みんなで心底、真のライフライン(いのちのつながり)をおもいめぐらし、わたしたちが共に平和のために働くにはどのような支援の態勢(心のあり方を含め)がふさわしいのか、またわたしたち自身のライフスタイルそのものについても思いめぐらし、聖霊の導きのもと、「平和責任」を果たすために、今後の方向性を分かち合っていきましょう。
 平和アピール(1981)30周年の記念すべき今年、列福された教皇ヨハネ・パウロ二世の取り次を願いながら、広島に集いましょう。  (後藤神父)

 今年の平和行事は表題のとおり、【「証」1945・2011】と題し、東日本大震災そして福島原発大崩壊、と未曽有の大災害に遭遇された方、また、被災地でボランテイァとして活動された方、そして66年前、12歳で被爆され、ご両親はじめ5人の家族を家もろとも失くされ、その後、「平和を願う会」の活動の中で、”核廃棄物、海洋投棄反対署名“運動など原子力発電の存在と向き合ってこられた方々の証言をもとにシンポジウムが開催されました。

@【山口裕子さんのメッセージ】

 12歳で被爆され、周囲の人々が次々と亡くなられるなか、「ピカにおうたもんは 3年以内にみんな死ぬ」などと噂され、自分自身もいつ髪が抜け始めるか、紫斑が出るかなどビクビクしながら、自分の生きた証を書き残されました。それを何度も書き直して1冊のノートの手記「閃光のあと」を、「戦争は人間のしわざです」(カトリック)正義と平和協議会、1991)の中に収録。

 1884年〜85年の日清戦争の時、宇品港から軍の物資や兵馬を大陸に送るため、廣島に大本営が移され以来、廣島は軍都としての位置づけが次第に大きくなりました。相次ぐ空襲で壊滅的な打撃を受けた東京が帝都としての機能が失われ孝の様で,軍都廣島の担う役割が大きくなった結果、人類初の原爆投下の目標とされた。

 「被爆の証言」にかかわったきっかけは、被爆後30年の夏、被爆者でない方たちが、“廣島の責務”として働こうと「平和を願う会」が設立され、呼びかけられ、その活動に参加がスタートです。会は、「祈り・学習・活動」を3本の柱としました。先ず、幟町教会で被爆されたラ サール神父、チースリク神父、長束で被爆者救助に献身的に当られたアルペ神父、そして被爆直後に手記を書かれたジーメス神父、外国人宣教師4人の被爆体験手記を「破壊の日」として出版、貴重な証言として評価されました。

 詩人の栗原貞子さんが、「もし占領軍による言論統制がなくて、被爆の惨状を公に語ることが出来ていたら、核の軍拡競争はここまでにならなかったでしょう」とラジオで語られたのが印象に残っています。当時、東西大国は、原水爆実験を競い合っていました。1954年にビキニ環礁での水爆実験による第5福竜丸被爆をきっかけに、原水爆禁止運動が起こり、1955年に広島で第1回の原水爆禁止世界大会が行われました。

 初めて原子力発電の存在と向き合うことになったのは1975年に発足した「平和を願う会」の活動の中で、私たちは ”核廃棄物、海洋投棄反対署名”の運動を始めました。白柳大司教さまも動いて下さり、全国的な活動となりました。核の海洋投棄は中止となり、その後も処理の方法のないまま、核廃棄物は溜まり続けています。そして今年の3月11日、恐れていた、篤手はならない大事故。地震の報道の度に原発はどうか、と気にかかり、国の原子力政策の転換をひたすら願い祈り続けてきたのに・・・と、涙が止まりませんでした。
 今は、拡がるばかりの被害に心を痛め、国策を変えることの出来ない政・官・産業界の姿勢に何とももどかしく限りと思います。
 私たちは、今、苦しみの中にある方たちのために、祈り、支え、後々の世代のために、連帯して、懸命に動きたいと願っています。

A【大塚 愛さんのメッセージ】

 郷里、岡山から12年前福島県の川内村に移住、20代の頃からの憧れ、自家発電・自給自足の生活を営まれる。3月11日、子供二人と自宅で寛いでいた時、急に震度6強の大きな揺れが始まりました。上の子はびっくりして泣き出しました。下の子は平気な顔をしておやつを食べていました。地震はびっくりしたのですが、幸い自分で建てた家はうまく揺れを逃がしてくれる家だった様で被害はありませんでした。大きな揺れが収まり、その頃、川内村の近くの海にも大きな津波が到達したことを後から知りました。

 地震のあと、原発の事を気にしながらニュースを聞いていました。最初、冷却水がストップしたというニュースが少し聞こえてきました。本当にニュースの中ではさらっと一言、言っていただけでした。ニュースを見ながら見守っていたのですが、全く収束の見込みなく避難を考えなければならない状況の中、その時点で、起こってしまった現実が受け止められなく、なぜか自分の家に戻りたい、村に帰って避難している人たちの手伝い、そんな思いにも駆られました。でも、小さな子供たちもいたので、離れなければならないという現実の中で、しばらく唖然とした時間がありましたが、ある時点で受け入れた時期があり、「あぁ、私が昨日まで家族と生活したあの家にも、あの村にも、放射能が来てしまったんだと】認識し、とてもとても悲しかったし、その悲しみは今でも消えません。

 その中でしばらく滞在できるところということで、私の実家がある岡山市に向かう事になり、翌13日の午前中に実家に着きました。その時は、西日本に入った頃から、とてものぞかな世界が広がっていて、穏やかな春の日があって、本当に別世界に来たと云う思いがありました。でも、子供たちはおかげで家に着いて、くつろいで遊びだしましたし、そういう意味では本当に無事に避難してきたことはありがたい・・・と思いながらも、その数日前まで自分が暮らしていた村に、心のほとんどが残っているような状態で、岡山に来て、ただただ、ニュースを見守っていました。

 私達が岡山に帰った数日後に、住んでいた川内村は、村長さんが全村避難の指示を出して三千人の村に海の側から避難してきた人が七千人、合計一万人位の人達がその村にいたのですが、その時点で国からの指示を待たずに、村長さんが全村避難を決め、その一万人全員をピストン輸送しながら郡山の避難所に移って行きました。三か月たった今、私の住んでいた村の二割から三割のエリアは二〇キロ圏内になっていて立ち入り禁止になっています。

 今、私たちは、岡山で、このエリアに住んでいる人たちの子供たちを何とか救えないか、という思いで呼びかけた事から、「子ども未来愛ネットワーク」という会が始まりました。そこでは、自主避難の方を受け入れるお手伝いをさせて頂いています。自主避難は法的援助が受けられないので、家を借りることもできません。そういう方向けに、空き家や、アパートやマンションを一年ほど、出来れば一年以上、無料でお貸し頂ける方を募集しています。

 あと、いま私がやりたいと思っていることは、福島に心を向け、いつまでともわからない放射能と向かい合って、それぞれの選択をしながら、今も尚多くの人が生きています。その人たちに思いをずっと向けつづけていたい。又その事をみんなで共有していきたいと思っています。

 今回事故のあとで、絶望の淵にいた時に、自然とのつながり、人とのつながりが、「ぷつん」と切れてしまって、漂うように岡山に来た時、私の心の中に、ぽつっ、ぽつっと、エネルギー、力を貰えたのは人とつながる事でした。境を越えて、いろんな人達が、思いを…いろいろな形で、つながること、そのことからしか、新しいこれからの未来を変える力は、そこからしか生まれないのではないかと思いました。これからみんなでつながって…つながって…より良い社会が作れるようにこころから・・・こころから・・・願っています。

B【江藤さおりさんのメッセージ】

 〜被災地活動報告〜
・震災当日から被災地訪問へ
 福祉を専攻してきた私は、ある大きな挫折から、博士課程修了後すぐに介護世界に飛び込み、7年程の現場実践を積んできた。無我夢中で福祉の形を追い求めた年月でした。今年3月、東京に1カ月講習会に行くと決めた矢先、東日本大震災は起きた。そのとき、すぐに何かしたいという衝動に駆られたのですが実際には何もできない悔しい日々が続いた。とにかく、東京に行けば情報が得られるかもしれないと、予定通り講習会に参加したが、思いもかけず仙台行の高速バスチケットが手に入り、そのまま被災地に飛び込んだ。そうして私が被災地に最初に足を踏み入れたのは3月の終わり、震災から2週間目の事でした。3月16日、仙台教区にサポートセンターが開設され、私はそこにお願いしてまず被災地視察をさせて頂き、釜石、大船渡、陸前高田をまわり、何が出来るのかをリサーチすることにした。

 最初に見た被災地は、にわかには信じられない瓦礫とヘドロと荒廃した建物が続く光景、そこにどんな町があって、どんな暮らしがあったのか、どれだけ想像を膨らませても想像することは不可能だった。ひとり、釜石の教会付近をしばらく歩いて回りましたが、その時何を思い、何を考えたのかは今でもよく思い出せない。むしろ初めて体験する被災地に、全く感情が湧かなかったという表現がふさわしいように思う。ただ、呆然と歩く中で、異臭と瓦礫を動かす音だけが妙に自分を引きつけていた。

・石巻での活動から
 その後、仙台サポートセンターにボランティアとして申し込み、宮城県の石巻にあるベース(拠点)に派遣された。現地では、教会に寝泊まりしながら、近くにある避難所のお湯の炊き出しサービスと、社会福祉協議会野募集する作業、個人以来の作業に従事した。教会の裏手には遺体安置所と仮墓地があり、毎日仮の埋葬が行われていた。私は毎日早朝にそこを訪れた。日本という国で起こったこの現実を必死で受け止めようとし、また、亡くなった方々のために、話をするために通い続けた。
 中でも、雄勝という場所に行った時の事はその後の活動の原点となった。その土地に立った時、これまでにない程自分の霊性が激しく揺さぶられた。雄勝は町の機能のほとんどが津波で押し流され、私が行ったときには人が自分以外にいない状態だった。瓦礫と崩れた建物、ひどい異臭。そして空には異常なほどのカラスとかもめが旋回していた。
 その場所に立った時、自分の存在自体が消失するような感覚に襲われた。その瞬間、私は被災地に来て初めて神様を必死で呼び、そして崩れそうな足元を必死で保とうとした。その後の活動は、今でもあまりよく覚えていない。それは、あまりにも不思議な感覚だった。

 被災地で学んだことは、何かをしよう、何か出来るはず、と思わない事。そもそも小さな自分には何も出来なくて当然なのではないだろうか。この現実の前で、無力な自分を徹底的に思い知ること。最も重要なのはその「何もできないちっぽけな自分」を徹底的に思い知ることが出来た事に
「喜び」、それでもそこに「居る」ことができることに何よりも神様に感謝し、価値を見いだすこと。
震災からずっと、被災地には目に見えない「痛み」が存在していたが、同時に、その「痛み」の中には希望があったように思う。私はその希望を「さざ波」と呼んで大切にした。どんなに小さな小さな1滴の波紋でも、注ぎ続ければいつか遠くまで届くと信じている。神様に完全に信頼し、その波紋を起こし続ける希望の一つになれたらという思いだけが、今の自分を動かしているのだと思っています。

・神様からのプレゼント
 色々な人達によく「何故そこまでして被災地に行ったのか?」と質問を受ける。その質問にどのように答えたらいいのか、的確な言葉が見つからない。強いて言うならば、被災地でイエス様が十字架を担いで働いておられるのを強く感じるから…自分を愛して下さる方がそこに働いておられるから…と答えるしかない。その十字架を共に背負わせて頂くことをちっぽけな私に許して下さるなら、どんなことをしても傍にいきたいと思う。そして、今後もその心に従って動くのだということを決して忘れてはいけないと思っています。

 そうは思っても、実際に被災地へ通い続け、ひとり活動をしていた時には、猛烈な罪の意識に苛まれ、霊性が揺さぶられることが多かった。活動の中で自分の心に芽生えてしまう自己満足や過信、自我を暴走させてしまいそうになる。また、目の前の現実は更に激しいものであり、自殺者の問題が次第に深刻化していく。被災地活動を続けているうち、その現実の中で、内的葛藤が次第に大きくなり、耐えがたい苦しみに必死で向き合った時期があった。その中で、沢山の人達に助けられ、私は初めて自分の限界と小ささを謙虚に認め、神様に両手を開いて、それでも使って頂きたい、と絶えずお願いし続ける祈りを覚えました。

 今、自分の生き方が大きく変わっていると感じる。過去、私は前だけを見て、明日や明後日を追いかけて雑に生きてきた。その私が今、丁寧に生きようと・・・周りを見渡しながら、宝を探しながら歩くようになった。この事が、知らず知らずに与えられていた最高のお恵みだったと今、深い感動と共に思い返す。心にはいつも、言い表せない感謝の思いを抱きながら、未来への希望をつないでいきたいと思っています。