キリシタン至福の里                                  2010年5月15日(土)

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キリシタン「至福の里」中山地区祈念地
■今年のキリシタン「至福の里」記念ミサは5月15日(土)に萩教会の恩地神父の司式で行われました。多方面から70名を越す多くの参加者があり、当時のキリシタンの信仰に思いを馳せました。
中山地区の小高い丘の山中でミサは行われました。新緑に囲まれた祈念地には、時折り心地よい風が吹き抜けていきました。この祈念地は山口教会と萩教会が担当していますが、今回は萩教会の担当でした。

■萩市の東北に紫福という村落があり、多くのキリシタン墓が発見されています。1555年毛利元就が陶晴賢を破り、山口を制圧します。仏教の保護者であった元就は、サビエル以来栄えていたキリスト教を一掃するため、すべての宣教師を防長二州から追放します。その時山口から多くのキリシタンが紫福へ遁れていきました。紫福の地名は「至福」からきたとも言われています。
紫福を知行地に持っていたのは、熱心なキリシタンであった三輪三兄弟でした。彼らはキリシタン武将熊谷元直の片腕となって働きました。従って当時の紫福は、長から村民までほとんど全てキリシタンで構成される、キリスト教ユートピア村であったと思われます。
1605年、熊谷元直が萩城建設時の事件に巻き込まれて、毛利輝元から誅殺されたとき、三輪三兄弟の長兄、三輪八郎兵衛も殺されました。それ以後、指導者をなくした紫福からキリシタンの歴史の痕跡は消えていき、山中に散乱するキリシタン墓を残すのみとなりました。
1999年、地元出身の増野さん(山口教会)を中心に、信仰に生きた紫福キリシタンを顕彰するため、地元の協力を得て中山地区にキリシタン「至福の里」祈念地が建設されました。こうして人知れず眠っていたキリシタン墓が日の目を見ることになったのです。
萩市長もこのキリシタン文化遺産に関心を持っており、学者を招いて調査されました。また萩市の広報紙の表紙に祈念地の写真が使われるなど、市民の関心も高まっています。
(参考資料)チースリク著「熊谷豊前守元直 あるキリシタン武士の生涯と殉教」