日鶴島巡礼                                      2008年10月13日(月)

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鶴島巡礼のご報告
殉教者の叫びが聞こえましたか?

 秋晴れの絶好の好天に恵まれた一日、前夜岡山教会から徒歩で日生まで歩かれた方17名を含め、約一三○名参加して巡礼が行われました。遠くは大阪教区の住吉教会(神戸)、高槻教会(大阪)など、又広島教区内では岡山、鳥取、広島県内はもとより小野田北若山教会(山口)からの参加があり、合わせて16教会他にもなりました。今回は特別に、作家の三俣俊二先生ご夫妻にも巡礼にご参加頂き、後で「岡山藩流配の浦上キリシタン」と題し、ご講演を1時間ほどして頂きました。今年も役場で島内の草刈りをして頂き、感謝しながら少しばかり私達もきれいにしました。
 野外ミサでは青年の「証し灯のローソク」を灯して、野中神父他、住吉教会の赤波江神父・幟教会の後藤神父を含め7名の神父の共同司式で行われました。早副神父は説教で「殉教者達はイエス様が与えた命の世界をなによりも大事にし、神の子に選ばれたことを凄く大事にしました。また、主においてお互いが祈り合う兄弟姉妹だということを、殉教者達に教えられます。……」とはなされました。 毎年行われる鶴島巡礼ですが、毎年違う事を感じる鶴島巡礼です。
 最後に会場を日生港近くのビルに移し、講演会が行われました。三俣先生は浦上四番崩れの概要を説明され、次のように話されました。「岡山流配の一番の特色は〈島流し〉で他にはない。当時は死刑にも匹敵する厳しい刑罰です。」「亡くなった17人の内4人は岡山市内の半田山墓地に埋葬されています。また殉教地として訪問して下さい。」「改心・不改心についてですが、改心者はその後もずっと悪く言われるがそれはどうか。殆ど教会にきちんと復帰している。いつまでも罪人扱いはキリスト者としてどうか。知らないと3度も言った聖ペトロをイエスは教会の柱にした。」そして、「ペトロ岐部みたいな殉教者もすばらしいが、私は鶴島などで誰知られるとも亡くなった殉教者に光を当てるべきだと言う思いで、今まで本【注】を書いてきました。」「棄教者が死んでも殉教にはなりません。でも臨終の際の心は神でないと分かりません。それを落伍者と人間が分類して良いのか」と。私たちに考えさせられる言葉でした。
 なお浦上教会からの情報として、今年は金沢に行かれましたが、来年は岡山(鶴島)に巡礼に来られるとのこと、皆さん多数参加して長崎の方々を歓迎しましょう。 

【注】「姫路・岡山・鳥取に流された浦上キリシタン」他 ……… 三俣俊二著/聖母文庫

野外ミサ説教(早副 穣 神父)

 皆さんと一緒に鶴島に巡礼に参りました私達、ここに眠る17名の殉教者達の墓は、単に上に石が置いてあるだけです。私達はそこを歩くときに、殉教者の頭を踏んでいるか足を踏んでいるか手を踏んでいるか分かりません。私達も又この土地に命を神に捧げた殉教者たちのことを400年前の事として、(今年列福式が有るわけですが)100年くらい前に殉教した人の遺体がこの石の下に有るわけです。私達もイエス様の今日の言葉「私は世の終わりまで日々あなた達と共にいる」、それはご聖体の秘跡の中にも私達と共にいて下さいますけれども、イエス様は皆に言われたとルカは書いていますが、「私に付いてきたい者は、日々自分の十字架を背負って従って来なさい」と言われています。

 私達自身は、イエス様のみ言葉を私達の生活の中で大事に受け止めるなら、イエス様が私達に与えようとしている命の世界、それを何よりも大事にしていったのが殉教者達の精神で有ろうと思います。殉教者達自身が(記録を読むと)「私達は神の子として選ばれた」ということを凄く大事に考えていました。殿様に従うのも名誉だと考えるのに、宇宙万物の創造者を父と呼ぶ、そして子として自分が呼ばれたということに対して、凄く大きな感動をもって殉教者達は生きてきましたし命を捧げてきました。

 私達は同じ状況になったら殉教できるだろうかということを考えてみると、「難しいなあ」という実感がします。そしてどういう状況の中に殉教者達がいたのかというと、播磨の8名の殉教者達が亡くなっていくときに、2万人の信者達が手にろうそくをもち、ロザリオの祈りを唱えながら集まって、「私達は皆さんと一致している」と言うと、本当に「皆が一つ心で祈っているということが皆さんお分かりでしょう」という殉教者の叫びが聞こえてくるような気がします。

 私達は連帯ということ、主において皆が兄弟姉妹として繋がっているということを、どれだけ大切にしていかないといけないかということを教えられるような気がします。そして私達自身が現代の時代を生きるのに、また主に於ける命の連帯というものを大事にし、そしてお互いが祈り合う兄弟姉妹てあることを大切にしていくことを、殉教者達は私達に示してくれているように思います。

 この石の下に、百年前に殉教していった人たちが今横たわっているということを意識しながら、私達も皆さんと一緒にこのミサを捧げて、亡くなった殉教者達の為にも私達の為にも祈って欲しいと思います。
これからミサが捧げられますが、皆さんと一つ心になって祈ることが出来たら幸いに思います。

三俣俊二先生講演会(概要)
岡山藩流配の浦上キリシタン

当日配布資料を見ながら

 鶴島について研究してきた中でいくつか結論出来た事をお伝えできればと思います。
 岡山藩流配の概略を最初にお話ししたいと思います。
 1865年に大浦天主堂を建て有名な信徒発見が有り、そのニュースがたちどころに世界に広まりました。そして信徒達の教会復帰への活動を始めます。信仰を隠せなくなり、葬式も教会でという話になります。

 浦上村全て信徒と分かり、浦上四番崩れになり計20藩23カ所に流します。その一つがこの岡山・鶴島です。岡山流配の特色は、島流しにしていることです。(今はガムやハワイなど島は楽しいですが、)当時は死刑に匹敵する厳しい刑罰でした。全国流配の中で島流しは岡山だけです。萩でも数ヶ月だけ有りましたが、岡山では浦上に帰還するまで唯一留まっていました。

 従来主な資料はマルナスの「日本キリスト教復活史」(帰還から12年後)と浦川和三郎の「旅の話」(マルナス本から約40年後)です。聞き取り時の信徒の記憶違いが随分有り、間違った情報が一般化していました。その修正資料として政府の公文書があります。流配の人数・名前・年齢皆載っています。

 岡山藩流配は主に本原(もとはら)郷(ごう)の平(ひら)・辻の117人。……弓之町牢獄、松寿寺に。食料配給の通達も殆ど守られず、特に男子は牢屋の庭に生えている雑草を食べているような状態でした。何ヶ月も経つうちに(巧みな呼びかけもあって)改心者が続出しました。改心者は本行寺(今の朝日新聞社)に移されたが、諸般の状況で浦上に帰せなくなり鶴島に、しかも(不改心者より)先に送られた。当時鶴島は低い草が生えていました。狭い長屋を作って入れました。とにかく狭かった。改心者と不改心者の開墾地は分けていました。

 改心者は明治5年に開墾地の払い下げを受け、売り払って帰還しました。旅費になったんでしょう。それが前田さん(今の持ち主)の手に移ったんでしょうね。苦労して開墾した土地も今は単なる無人島になってしまいました。

 死者の名が記念碑に書いてあります。岩永ちさ他の計17名で、内4人は岡山での死亡で半田山墓地(今の墓地入り口付近?)に埋葬です。また殉教地として訪問して下さい。
一つ四角い墓石が有るのは野口サメさんで後日息子が建てたものです。

 鶴島に来てからも次々に改心が続いています。
 改心・不改心の問題ですが、約半分が改心です。これは大きな問題です。殉教とも関係します。浦川司教の著述等にもあるように、両者の間の極端な違和感とでも言いますか?自分の祖先がM5年帰還組(改心)かM6(不改心)か大変気にされます。M5には「おめおめと」とか悪い言葉がついて来、M6には「信仰を堅く守って凱旋した」となる。当時の司牧方針としては当然だったが、今ではどうかなと思っています。M5の方も教会に復帰している。迎え入れられている。それを今もって「おめおめと」とか言って批判する立場に我々が有るのかと思います。様々な事情が有ります、特に岡山藩では飢えと拷問の中で心ならずも捨てますと言った人達です。問題は浦上に帰ったらどうしたか、ちゃんと教会に復帰している。それをいつまでも罪人扱いにする、卑怯者扱いする。それが果たしてキリスト教の考え方から来るのか。主を一番大事なときに知らないと3度も言ったのは聖ペトロです。それをキリストは教会の柱として建てられた。そこを考えないと解決しません。
 (岡山の)17名の内3名は改心です。改心者の生存率は高い、不改心者から殆ど死者が出ている。改心者は隣島で買い物したりして自由だった。そこから偏見も生じているが、最後まで(改心の)レッテルを付けて、(改心者はそこで死んでも殉教者にはならないですね、一般的には棄教して死んだから)。でも、死ぬときに心から改心して神に赦しを願って死んだのかも知れませんね。

 殉教者の定義は、@信仰からくる道徳の為に死んだ、A命を棄てたこと、B抵抗しないで死んだこと、この3つが必要になります。ここから、棄教者は殉教にはならないですね。でも臨終の最後の心は神様でないと分かりません。それを人間が落伍者・殉教者と分類するのはどうでしょうか。
 自分の自尊心・虚栄心から死んだのは殉教になりません。殉教者の中にもその落とし穴が有るかもしれません。一方、犬死にと言われている人の中にも臨終の時には心から罪を悔いて、信仰の為に命を捧げたかもしれません。人間が一概に落伍者・殉教者と判子を押すのはもっとも注意しないといけません。鶴島も半分が改心者です。

 ペトロ岐部と187殉教者が列福されますが、あの方達は鋼鉄のような意志ですね。…………
 ああいった(ペトロ岐部みたいな)殉教者もすばらしいですが、一方鶴島などで、誰にも知られることなく亡くなった殉教者に光を当てるべきだと思います。
 それが(私が浦上キリシタンについての)本を出した理由の一つです。まだ20藩の内10藩分しか出していません。半分は書かずに終わるかも知れませんね。
 そっと人知れず咲いた殉教の花、それをイエス様も一番喜んでくれるのではないでしょうか。

 鶴島に限らず、各地で生後間もない赤ちゃんが(胸が痛みます)だだをこねます。子どもの為に心ならずも転ぶということがありましょう。転んだ方の大部分がそうですね。母親の棄教者が非常に多いです。
 その方々の中にも浦上に帰って教会に復帰された方が多いです。(復帰出来なかった方の中には)復帰の心を持っていたにもかかわらず、M6の方が教会に来にくい雰囲気を作っていたことも有るようです。
 これはもっともキリスト教の精神に反する事ではないでしょうか。