被爆証言『原爆の証人』 服部節子氏(日本語)

HOME > ヒロシマの鐘 > 被爆証言(日本語)

 広島には3つの顔=「軍都広島」「被爆地広島」「平和都市広島」があります。今から約60年前、広島は軍都として栄え、戦争と共に発達した町でした。町の40%は軍の施設が使用していました。南の広島港から日中戦争などのために、たくさんの兵士が戦地に送られ、軍事物資を送り出す軍港としての役割を果たしていました。日本軍は一方的に中国を占領し、最初は「勝った」と喜んでいたのですが、太平洋戦争に突入していくと、ミッドウェイ海戦を境に追い詰められ、沖縄まで後退していったのです。 1945年頃、日本の大きな都市は、ほとんどアメリカ軍機の攻撃を受けました。広島はなぜ攻撃を受けないのか不思議でしたが、今思うと、軍都である広島は原爆投下のためにとっておかれたのだと思います。1945年8月6日、アメリカの爆撃機エノラ・ゲイが広島の町に一発の爆弾を投下しました。これが原子爆弾です。この一発の爆弾は20数万人の命を奪い、30万人が被害を受けたのです。その時、爆心地の温度は3,000度〜4,000度になったと言われています。鉄が溶ける温度が1,500度ですから、その威力はお分かりいただけると思います。爆風は風速300mだったと言われています。台風の場合でも50mで立っているのが難しいのですから……。この爆風で爆心地から3km以内の家屋は壊されてしまいました。
 私は当時14歳の女学生でした。男の人たちはみんな戦争に行って、人手がなく、私たちは強制的に軍事工場で働かされました。毎日、勉強の代わりに大砲の弾を作っていました。その日、8月6日は工場が休みで、遅い朝食を済ませたところでした。私の家は爆心地から1.7kmの所にあり、家の中にいた私は突然、ピカピカッと光ったのを感じました。それは0.3秒位のことだったと思いますが、その0.3秒の熱線が外にいた人を焼いたのです。その光に続いて、ドーンと激しい音がして、家が地震のように揺れ動き、私は一度浮き上がって強く叩き付けられました。砂煙といっしょに天井と柱が落ちて、息ができなくなり、「あー、死ぬ」と思いました。しかし、木造の平屋でしたから、必死に体を動かし、どうにか外に這い出てみると、服はボロボロに破れ、ガラスの破片は体中に突き刺さり、血だらけに……。見渡す限りの家は潰れ、「助けて!」という声があちこちから聞こえました。『はだしのゲン』というマンガを見た人は分かると思いますが、家の下敷きになった人たちはそのまま火災で焼かれ、死んだのです。みんな傷つき、助けてあげる力もなく、逃げるのがやっとでした。私は母と二人で近くの公園に逃れました。次から次へと避難してくる人びとを見ると、どの人も服はボロボロで髪の毛は逆立っていました。何年か経って、「当時のことを思い出して、被爆の絵を描いてください」と広島市が募集して、描かれた絵は、激しく心を揺さぶられるものがありました。顔や手が火ぶくれでお面を被ったような人もいました。自分の垂れ下がった腸を抱(かか)えている人や片方の目が飛び出した人、耳が取れた子どもを抱いて、「かわいそうに、かわいそうに」と泣いているお母さん。火ぶくれになった肌はやがて破れ、手の皮は爪のところで止まり、ボロ布のように垂れ下がっていました。みんな大きな衝撃のため、考える力を失い、恐ろしさから逃れようと足が続くかぎり、歩いていたと言います。
 そのうちに火が火をよび、壊れた家が燃え始めました。みんな負傷して、消す人がいないので、広島市は火の海になり、一晩のうちに焼け野原になりました。その時、真っ黒い重油のような大粒の雨が降り出しました。これは爆発後、数千フィートの上空まで上げられた煙と埃が雲をよび、雨となって降り出したのです。それでも私たちは「天の助けだ」と大喜びして黒い放射能を含んだ雨を浴びて、喜んでいたのです。その雨に濡れたため、真夏なのに高熱が出た時のようにふるえが止まりませんでした。その夜、野宿をした私たちの回りで、うめき声を上げていた負傷者は朝を待たずに死んでいました。
 翌日から母と二人で父を探し歩きました。父は爆心地の近くで勤労作業に出かけていて、爆死していたのですが、そんなこととは知らず、炎天下の焼跡を毎日たずねて回りました。私は足の太ももに三角結びのようなガラスの破片が突き刺さっていて、痛む足を引きずって歩いていました。まだ息のある人は「水! 水!」と叫び、歩いている人の足音を聞くと、「水をちょうだい!」と訴えていました。その人たちは「痛い」とか「苦しい」ではなく「渇き」ばかりを訴えて、死んでいきました。その人たちは心も体も渇ききっていたのではないかと思いました。私にはその人の姿が私たちのために十字架上で死んでくださったキリストの姿とダブって見えることがあります。
 死んだ人たちを、みんなで焼くことを考えました。枯れ枝を集めて遺体を乗せ、油をかけ、かわいらしかった隣の家の坊やも知らない人も焼きました。そうして至る所で遺体は骨になっていったのです。広島市は全体が墓地だと考えてよいかもしれません。なぜこのように多くの人が死んだのかと言いますと、広島市は空襲に備えて火災が広がらないように建物を壊し、避難する道を作っていたのです。その作業に出ていたのが中学生、女学生でした。遮(さえぎ)るものがないので、たくさんの人が死にました。軍隊が、取り壊した家の跡にさつまいもを植えていたので、生き残った人たちは、爆撃を受けたのにツルを伸ばしていたサツマイモのツルを毎日食べていました。
 しかし、数週間経った頃、恐ろしいことが起こったのです。傷を受けずに元気そうにしていた人たちが、突然鼻血を出し、下痢をし、髪の毛が抜けて死んでしまうのです。これは放射能による原子病のためでした。原爆は広島を破壊しただけでなく、放射能をまき散らしていたのです。私の友人の子どもさんも原爆症による白血病に罹りました。苦しみのため、夜中5分と寝かしてくれないので、看病に疲れたお母さんが「少しは寝かせてよ」と思わず叱ったら、男の子は泣きながら「病気になったのはボクのせいじゃないんだよ。元の体にしてよ。ボクはもっと生きたかったよ」と叫び、6歳で亡くなりました。感じ易い少女時代に被爆して顔に火傷を負い、悲しみの日をすごされていた方がたがいました。当時、原爆乙女と言われていた方の一人が、「ほほえみよ、かえれ」という詩を作りました。その詩は「つめたき運命(さだめ) 身に負うて さみしく生きる 乙女ごのほほより消えし ほほえみよ ふたたび いつのひに かえる」 この方たちは現在、身をもって証言したり、核廃絶を訴えたり、平和の使徒としてがんばっておられます。
 私は4年後に洗礼の恵みを受け、亡くなった人のため、また平和を祈ることができ、やっと心に安らぎが与えられたのです。そしてこの日、一発の爆弾によって死んでいった人びとに代わって、広島の叫びを世界の人びとに伝えていかなければと感じたのです。
 現在世界で保有されている核兵器は、広島の原爆の100万発以上の破壊力と言われています。核は人類を滅ぼしてしまうことを、被爆者の立場から広島の地から伝えなければならないのです。8月6日、ここで何が起こったのか、人類は何をしてきたのか。再び戦争が起これば人類は滅亡してしまうのです。戦争は全てを破壊しますが平和はこわしたものを直します。友だち関係でも憎しみ、争いで信頼は壊れますが、自分の弱さを自覚して、祈り、助け合っていく時、平和が築かれるのではないでしょうか。平和のために何ができるか一人ひとり考え、祈り続けていきたいと思います。 最後に『原爆ゆるすまじ』の歌をうたって、私の話を終わります。

      ふるさとの 町焼かれ 身寄りの骨 埋めし
      焼け土に 今は 白い花 咲く
      ああ、ゆるすまじ 原爆を
      三たび ゆるすまじ 原爆を
      われらの町に…世界の上に

サンパウロ出版「家庭の友」2006.6月号
第12回カトリック日韓学生交流会(2006.2. 23〜27)についての特集記事より
お話『原爆の証人』服部節子氏(広島市・カトリック幟町教会)(2006.2.25語る)
英訳と注記: リチャード ケジィオル氏(カトリック幟町教会)(2006.7.2訳す)

Japanese - English - French - Portuguese - Spanish - Italian - Arabic